Vol.79 ぶなの森

ポンバル太郎 第七九話

10月も続けざまにやって来そうな台風を避けて、九州や四国では新米の収穫が前倒しで始まったとテレビで報じていた。時を同じくして、ポンバル太郎のポストには平成26byの酒造りに入る蔵元から挨拶状が届いた。
色とりどりのハガキをカウンターに並べる太郎の前には、久しぶりに銀座のママの手越マリが顔を見せている。BAR“手毬”は繁盛しているようで、機嫌がいい。
「熊本では、神力米(しんりきまい)の収穫が始まったばい。今年は、どげんかねぇ」

 ハガキへ目を通した太郎はそれに答えず、ため息まじりにつぶやいた。
「やはり……とんでもねえ暑さが、山田錦に影響してるか」

 腕を組んだままの太郎に、マリが純米吟醸のグラスを止めた。
「山田錦が、どげんしたと?」
「猛暑で、出来栄えにバラつきがある。粒がそろってない県もあるみたいだ。反対に、冷夏や雨の多い年の山田錦は青米が増えて、モロミにすると溶けすぎるきらいもあって難儀なんだけどね」

 太郎の答えに、マリは怪訝な面持ちを見せた。
「山田錦は、兵庫県の酒米やなかね?」

 すると、太郎が答える前に玄関の鳴子が音を立て、右近龍二の声が飛んで来た。
「山田錦の栽培は、けっこう広がってますよ。ちなみに、我が故郷には“土佐山田錦”てのがあります。ほかにも隣の徳島県、鳥取県や静岡県もあったかな。これだけ日本の気候が温暖化してくると、西日本でしか育たないって山田錦がだんだん北上してるみたいですね。ほら、マリさんの純米吟醸は鳥取県産山田錦だ」

 隣りに座った龍二がカウンターに置いてある一升瓶を回して、裏レッテルを覗いた。

 手越マリが、老眼の目を凝らして訊いた。
「そげん山田錦は、よか酒米ね? 私は、神力米の酒の方がうまか!」
マリは酔ったのか、素顔と頬紅の赤さの見分けがつかなくなっている。
故郷の酒造好適米を贔屓する気持ちは、龍二も同じだった。
「僕だって、土佐山田錦がイチオシですよ。だけど、やっぱり本家本元の兵庫県産山田錦は素晴らしいって、杜氏や蔵人から聞きます。味の評価は酒の仕上がりによりけりですが、造り手にとっては扱いやすい、とっても優秀な米なんです。つまり、求めている酒を造りやすい米だそうです」

 精米から給水、そして麹米にしてからのさばけ具合、酒母やモロミでの発酵変化が、造り手を裏切ることが少ない。しかし、兵庫県産の山田錦は正統ブランドとして高価で、遠隔地の蔵元には物流費もかかる。それだけに、山田錦を我が地元で育てたいと考える蔵元や酒造組合、行政機関は増えていると龍二は解説した。
「このままいけば、北海道や東北でも普通に栽培されるかも知れませんね」
「なんねぇ。それなら、どこでも獲れる山田錦たい」
マリは立ち上がると、冷蔵ケースの酒瓶を物色し始めた。どうやら、山田錦の酒がどれほどあるのかを調べているようだった。
太郎は単純明快なマリの行動に苦笑して、龍二に答えた。 
「いや、そいつはどうかな。朝晩の冷え込みが厳しいし、日照時間も西日本とはちがいすぎる。確か、秋田県が最北端だが、ごくわずかしか獲れてないはずだ。そう簡単には、作付けできねえだろ」

 冷蔵庫の一升瓶が触れ合う音の中、また玄関の鳴子が響いて聞き慣れた声がした。
「ご名答! それに答えられる蔵人を連れて来たわよ。私の従兄、高野武志君です」

 高野あすかが、若い男を同伴していた。鼻筋の通った精悍な顔つきが、どことなくあすかに似ていた。あすかは、今年の6月にポンバル太郎へやって来て斗瓶囲いの酒談義をした、神崎杜氏の部下だと紹介した。
「あの時に話してた、秋田へ行った蔵人さんか! なるほど……じゃあ、さっそく秋田の山田錦について教えてもらおうか」

 太郎は秋田の山田錦を探しあぐねているマリをカウンター席へ戻すと、奥まった瓶の中から、茶色の四合瓶を取り出した。一升瓶の影に隠れていたせいで、マリには見つからなかった。
「こいつは、ある秋田の蔵元からサンプルでもらった秋田県産山田錦の純米吟醸だ。そこそこの味わいだが、これに続く蔵元がいねえのはなぜかな?」

 高野武志は緊張しているのか、咳払いを一つして、重たげに口を開いた。
「秋田県では、やはり気候風土の課題が多く、山田錦の収量は上がらねっす。それにぃ、山田錦は10月末から11月が収穫期で、秋田県では雪がちらつき始める頃だから難しいっす。んだもんで、生産者の採算も合わねえ。それに、僕は秋田のぶなの森の水には合わねえと思いまっす」

 武志が秋田訛りを強めたのは、世界遺産の白神山地や鳥海山など、ぶなの森の雪解け水は冷たい超軟水であること。春先も冷える秋田の田んぼにはこの水がふさわしく、そこへ西日本の山田錦を移植するには、相当の研究開発が必要だろうと言った。ましてや、兵庫県の六甲山周辺の伏流水は温かく、中軟水が多いはずだとも付け加えた。
「……てことは、秋田の水は山田錦に合わねえってことか」
「水が変われば住みにくいのは、人も米も同じってことですか……深いなぁ。そう言われると美山錦の産地には岩手や秋田、福島や長野と、ぶなの森が多いですね」

 ぶなと聞いてもピンとこないのか、マリはあすかに困り顔を向けた。

 あすかは任せてといった面持ちで、問わす語った。
「ブナって、木へんに無いって書くのよね。つまり役に立たない、用無しの木ってことらしいの。たくさん雨水を吸収して山に浸透させてくれるけど、反面、柔らかすぎて材木には使えない。でも、一途に軟水を作り出す性質は、生真面目な秋田や東北の人たちに似てるでしょ」

 あすかが視線を向けると、武志が照れくさそうにはにかんだ。
「確かに、蔵人にとって兵庫県産の山田錦で醸す酒は憧れですが、秋田にはそれに勝るとも劣らない酒造好適米“秋田酒こまち”がありまっす。山田錦のような醸造性の良さと、美山錦のように栽培性の高さがあってぇ、ぶなの森の水で育つすっきりとしたまろやかな味わいの酒造好適米です。10年以上かかって開発してんだから、まずは、これを使わねばなんねす」

 朴訥とした武志の顔に満面の笑みがあふれると
「そんだ、そんだ。けっぱれなぁ」

 と、あすかが東北訛りで何度も相槌を打った。従兄への温かなエールに、マリが目を細めて言った。
「あすかちゃん、そう言うあんたも福島の軟水の育ちたい! 太郎さん、龍ちゃん、やっぱり日本酒には、それぞれにお国自慢の酒米がある方がよかよ」
「ちげえねえ」と太郎が頷くと、龍二も「だから、地酒なんですよ」と武志に笑みを送った。
 その時、玄関の扉が大きな音を立てた。
「おおおっ! なんでぇ。楽しそうなムードじゃねえの。酒談義なら、俺も加えてもらうぜ! その前に太郎さん、水を一杯くんねえか。喉が渇いちまってさ」
 ぶっきらぼうな火野銀平の登場に武志が唖然としていると、あすかとマリが顔を見合わせて言った。
「やっぱり築地の井戸水じゃ、塩っ辛い男しかできないわねぇ」
 揃った二人の声に太郎たちが爆笑する中、銀平はきょとんと立っていた。