Vol.53 桜酒

ポンバル太郎 第五三話

 薄暮の春の空から舞い落ちる淡雪が、通りを歩いて来た高野あすかの黒髪とスプリングコートの肩を湿らせていた。
「最後のなごり雪かぁ。さぁ~、今夜は日本酒がさらに美味しくなる、ポンバル太郎のお花見よ!」

 そう独りごちて勢いよく杉の扉を開けたあすかが、雅な光景に瞳を奪われた。
カウンターの両角を桜の盆栽が染めている。左隅は、しなを作る芸妓のようなしだれ桜で、それと対照的な気品のある令嬢のようなソメイヨシノが右端に佇み、どちらの植木鉢も幽玄な美しさを湛えていた。派手さを控えた凛としたその鉢を愛でながら、中之島哲男が盃を傾けていた。 「おおっ、あすかちゃん。こっちゃ、おいで! あんたには特等席を用意してあるさかいにな」

 上機嫌でおいでおいでをする中之島の顔は、飲み干した二合徳利の純米酒のせいですっかり桜色になっている。彼が大阪から送って来た二つの盆栽を客たちも褒めそやし、中之島は悦に入っていた。五十歳を過ぎて始めた盆栽いじりは、もはや中之島の生きがいにもなっている。

 しかし、その表情を突き崩すかのような批判が飛んで来た。
「まったく、無粋だねぇ……あれじゃ、お通夜じゃないか。江戸の花見ってのは、もっと豪華で賑やかじゃなきゃダメだ。けれんみが無さすぎるんだ。剪定やったのは、どこのどいつだい?」

 聞き捨てならないとばかりに顔を火照らせる中之島に、客たちの酒を飲む手が止まった。
唖然として顔を見合わせるあすかと太郎が声の主に目を向けると、壁際の小テーブルに六十歳前後とおぼしき一人の熟年女性が座っていた。彫りの深い目鼻立ちは、少し異形に見える。
「あちゃー、おとなしくしてくれよって頼んだのに。あの男勝りな一言居士の性分だけは、死ぬまで治らねえな。それにしても銀平の野郎、何でまた今日に限って、うちで待ち合わせするんだよ」

 ぼやく太郎へ、あすかが視線で誰何すると
「銀平の亡くなったおふくろさんの妹で、竹芝で船宿をやってる松子さんだよ」

 と耳元でささやいた。松子の船宿は、明治時代から隅田川や東京湾のお台場などを遊覧する屋形船業者で、今も江戸の粋な文化として花見シーズンには活況している。
途端に、またもや松子のダミ声が響いた。
「ちょいと太郎ちゃん! 誰が一言居士なのさ。あたしゃね、おっちょこちょいって言われようが、百言だって千言だって自分の思ったことは正直にしゃべってやるんだよ」
「あらら、しかも地獄耳だわぁ~」

 たじろぐあすかが松子に作り笑顔を返した時、仁王様のような面がまえの中之島がカウンター席から立ち上がった。
「ほんなら、その無粋な上方のおっさんと江戸の粗忽者のおばはんと、どっちが粋なんか、いっぺん勝負してみよか? しかし、あんたの口さがなさは傍若無人も甚だしいな」

 これまで見せたことのない怒り心頭な中之島の形相に、さすがに太郎も只事じゃすまないと厨房から飛び出した。

 その時、玄関の鳴子がかすかに音を立てた。店内の緊張の糸が切れ、テーブル席の客たちがふり向くと、シルバーグレーの髪を結い上げた和装の女性が襟足のほつれを直しながらほほ笑んでいた。彼女のほころんだ目尻に、太郎は以前に中之島と連れ立って若狭ぐじを持って来た祇園の料理屋『若狭』の女将・仁科美江だと解った。
「中之島はん、遅うなってごめんやす。どないしはったんですのん? えらい怖い顔してはりますなぁ」

 美江の銀鼠の正絹とまったりとした京言葉が、一瞬、あすかや男性客たちをくつろがせた。
「どうもこうも、あるかいな。せっかくわしがハサミを入れて育てた桜を気に入らんちゅうて難癖をつけはるよって、談判したろと思うてるねん」
見下ろす中之島と、美江をその連れ合いと知った松子は、大仰な態度で太郎に酒を頼んだ。
「ちょいと太郎ちゃん! まちがっても無粋な上方の桜を、この松子の盃に浮かべるんじゃないよ。後で来る銀平が、そこの隅田川べりから桜の花を持って来るからね」

 松子の言いぐさに対して苦虫を噛むような中之島の表情、その傍で困惑したようすのあすかに、美江は状況を察したらしく太郎にニンマリとほほ笑んだ。

 口ごもっていたあすかが、松子にポツリと言った。
「あの……桜を取るって犯罪ですよ」
「花の一つや二つ、どうってことないよ。ケチくさいこと言ってんじゃないわよ」

 にべもない返事に、我慢していた中之島が怒鳴りかけた時、美江が二人の間に割り込んで松子の前に座った。まさしく“柳腰”の表現がふさわしいほど、しなやかな動きだった。
「あの、私も桜酒が大好きなんどす。よかったら、京都から持って来た桜をいかがどすか」

 手提げ袋から美江が和紙包みを取り出すと、「ありゃりゃ、やぶ蛇だよ」と客たちがつぶやいた。
「あんた、何言ってんだい! さっきから、私はあんな上方の桜は嫌いだって……」

 抗弁しかけた松子の言葉がふいに途切れ、その視線がまばたきもせず美江の開いた包みを見つめていた。小箱に、ほのかに紅い桜の塩漬けが敷き詰められていた。
「……これは、うちの船宿でもこの時期に使ってる桜の塩漬けじゃないか」

 松子の答えに美江はしたり顔を隠すように、もっちりとした両手の白い指を顔の前で合わせて喜んだ。
「実はこれ、うちの料理屋で作った物ですねん。京都には昔から、東京からいらっしゃるお客様がぎょうさんいはります。うちにも毎月お越しになる常連さんがいて、その方々のために、東京の桜を使った塩漬けを作ってお出ししてますねん」

 美江は、東京の濃い味に合わせて京料理の薄味を変えることはできないが、塩漬けの江戸の桜をこの時期は薬味として刻んだり、酒に浮かべたりすると、いいあんばいの辛さと香りが好評なのだと答えた。
「あんた、上方の女じゃないの?」
「上方であっても、京都と大阪はあんまり仲がええことおへんえ。むしろ、京都のおなごは東京の男とご縁があるみたいどす。それに、これからの日本料理は東京や大阪やと意地を張ってる場合やおへん。せっかくユネスコの世界文化遺産になりましてんから、身内で争うてる時やおへんわ。おたくはんは、船宿をなさってるとか。船頭さんかて、今は外人はんがしてるって聞いてますえ?」

 松子が表情をゆるめ、しだいに美江の流暢な京言葉に惹き込まれるのをあすかは感心しながら見つめていた。太郎も中之島をカウンター席にうながしながら、太郎に秋波を送った美江の人となりに京女のしなやかさとしたたかさを感じていた。
「そうなんだよ、あんた! よく知ってるねぇ、あんた見かけによらず賢いねえ」
「そんなことあらしまへん。松子さんどしたか、ええ気風をしてはりますなぁ。東と西の女将同士、仲良う、桜酒で乾杯しまひょ」

 頃合いをはかった美江は、太郎に自分の盃も頼むと、桜の塩漬けを松子の前に置かれた片口の酒に浮かべた。たったひと時で松子の心を手中に収めた美江に、中之島が苦笑いした。
「あ~あ、こら完全に、大阪の男の負けや。しゃあけど、美江さんも人たらしやなぁ」
「でも中之島の師匠、桜はやっぱり、京の女に似合いますねぇ」

 松子へ酌をする美江のしなやかな手つきに見惚れる太郎へ、あすかが釘を刺した。
「ところでさぁ、さっきの美江さんの『京都のおなごは、東京の男とご縁があるみたいどす』って、誰なのかしらぁ?」

 はにかみながら厨房へ逃げ込む太郎を、二つの桜の盆栽が笑っているようだった。