冷え込んだ空気が乾燥してきたせいか、行き交う人々の靴音が通りに響く夜だった。
ポンバル太郎へ向かう高野あすかも、商談に無理して履いた赤いハイヒールの音が耳ざわりで、やはりベタ底のスニーカーが自分には似合っていると自嘲した。
扉の前に立ってほっとすると、キレのある唄声が店内から流れていた。
富山民謡のこきりこ節のような、どこか懐かしい節回しにあすかはしばらく聞き入っていたが、はっとして顔色を変えると扉を勢いよく開けた。
「よ~い、よい♪ 蒸した米っこ、熱冷まし、もやし(麹)かけりゃあ、寝ずの番♪」
その声は、カウンター席でほんのりと顔を赤くした若者の口から発せられていた。右隣で手を叩いているのは右近龍二と手越マリで、純米酒のグラスを手にする火野銀平はすでに酔っ払い、その若者と肩を組んで、うる憶えらしい唄をがなっている。
テーブル席の客たちも、楽しげに合いの手を入れていた。
すると、あすかの声が唄をつないだ。
「ひと晩、夜更かし、蓋っこふりば♪ 母ちゃん、恋しや、春よ来なせい♪」
若者は、いきなり差し込んできたあすかの声に振り向くと
「そりゃ、会津の唄だっぺ?」
と笑顔を返した。
「そんだよ。兄さんは、どこさねぇ?」
初めて聞いたあすかの会津訛りに、銀平はキョトンとし、龍二とマリは思わず顔を見合わせた。太郎は一瞬、包丁を止めてあすかを見つめると、どこか安心したような表情で若い男を紹介した。
「彼は、山本寛太 君。能登杜氏の矢口さんの弟子でね。今は、富山の砺波市にある酒蔵で蔵人をしている。酒の展示会があって上京し、初めてうちへ来てくれたんだ。銀平がせがむもんで、さっきから酒造り唄を披露してくれてんだよ」
若者は五厘刈りした頭を光らせながら、ていねいにおじぎした。垢抜けない、実直そうな山本の風貌に、あすかはどこか懐かしい印象を感じた。
「そ、そ、それにしても、酒造り唄ってのは、いろいろあるもんだなぁ?」
呂律がおかしくなっている銀平が訊ねると、マリが飲みすぎを訝しがる口調で答えた。
「私の故郷の熊本にも、酒造り唄はあるとよ。けど、今の山本さんの唄とはちごうちょって、“五木の子守唄”にそっくりたい」
「やっぱり、地元の民謡ってのが基本になってんのか? 山本ちゃん?」
馴れ馴れしげな口ぶりに、太郎も手にする菜箸を振って銀平をとがめかけた。
山本は人のよさげな笑顔で太郎を制すると、自分の話しに聞き耳を立てている店内の客たちにも話しかけた。
「酒造りの基本は同じでも、いろいろな土地柄や気候風土によって、技術は微妙に異なる部分があります。そこを調整するのに、酒造り唄は大切な存在でした。皆さんがよくテレビの取材番組で見たり聴いたりしているのは、“もとすり唄”と呼ばれています。つまり酒母を造るための唄なのですが、これは宴会の席でも使われました。でも、ほとんどの工程の唄は、もう現場では唄いません」
酒造り唄は、いつも安定した品質と味を造るために必要不可欠だった。蔵人が息を合わせて作業をするのはもちろん、時計のない時代だから、各工程にかける時間をいろいろな唄によって計っていたと山本は説いた。
「そうか。今は杜氏がストップウォッチを持って米を洗う時間を計っているけど、昔は唄の長さで決めてたのか」
感心する龍二に山本が頷いた時、あすかが口を開いた。
「杜氏の耳に、唄がちゃんと聞こえることが大事だったの。蔵の中のどこにいても、いろいろな工程の唄が、毎日、時刻どおりに聞こえてくることで、杜氏は過失なく仕事が進んでいると判った。もし遅れたり、早かったりすれば、それは問題が起こっている証しだった。私が子どもの頃、酒造り唄は耳にこびりついていたのに……ずいぶん、忘れちゃってるな」
店の真ん中に立ったまま神妙な面持ちで語るあすかを、マリがカウンター席に誘った。
震災後のあすかの実家の廃業を気遣ってか、みんなが口ごもると、太郎がおもむろに言った。
「以前、あすかはこう言ったよな。お前のお父さんは、桶の箍を締めなおす木槌の音で朝は起き、正午はモロミの仕込み唄で知ったと。その血はあすかの中に眠っているだけで、いつだって目覚めるよ。だから、心配しなくてもいいさ」
「あすかさんって、蔵元の娘さんなんですか。それなら、都合がいいや! 一緒に唄いましょうよ。お客さんたちに憶えてもらえば、日本の酒座がもっと楽しくなる!」
屈託なく話しかける山本に、あすかは、かつて実家で働いていた蔵人たちの面影を思い出した。
「それにしてもまっすぐな、よか声ばい。きっと、山本さんはモテるたい」
マリの褒めそやしに山本は照れながらも、なるほどの答えを返した。
「蔵人は唄が上手すぎてもダメだし、唄えなくてもダメなんですよ。昔は、上手だと酒場の女性にモテて、深酒をして、翌朝は仕事にならなかったそうです。それに、僕の唄は上手いんじゃなくて、声の聞こえがいいだけです。じゃあ、あすかさん、もとすり唄をやりますか」
山本がすうっと息を吸い込むと、あすかも胸に手を当てて、唄の準備をした。
二人が唄い始めると山本の声に透きとおるようなあすかの声音が重なり、それは杉の壁板にしみ込むようだった。
唄が終わっても龍二は余韻にひたっていて、うっとりと聞き惚れていたマリが声を高めた。
「あすかちゃん、あんたもとっても上手たい! 今度、うちの店で、ひと節唄ってくれんね。ポンバル太郎の代表歌手ばい!」
それにつられて客席から拍手が起こると、酔いが回ってきた銀平がからんだ。
「おいおい、マリさん! 俺を忘れてもらっちゃ、こまるぜ。亡き親父譲りの、魚河岸の木遣りってのを披露してやろうじゃねえか。ちょっとやそっとじゃ、聞けねえよぉ」
マリが、咳払いをしている銀平の頭をはたいた。
「遠慮しとくたい。あんたの音痴は、うちの店でも評判たい。酒造り唄どころか、酒が腐ってしまうけん」
「な、なんだとぅ! ありゃ、BAR手毬のカラオケが調子悪かったんじゃねえかよ」
負け惜しみをもらす銀平に、太郎が追い討ちをかけた。
「そういや、この前、火野屋の奥部屋で飲んだ純米酒。けっこうヒネてたぜ。お前、毎日、仕事が終わると部屋で唄ってんだって? だから、腐っちまったんじゃねえか」
「えっ? だっ、誰にそれを!?」
顔色の変わった銀平に
「腐り酒の唄もありますよ。ちょっと唄ってみます?」
と山本が笑って告げた。
とたんに爆笑と手拍子が巻き起こり、ヤケクソになった銀平の唄声が通りまで響き始めた。