ひっそりとした連休の谷間、ポンバル太郎のカウンター席に二人の男が肩を並べている。ぬる燗の純米酒が入ったお銚子を傾けているのは、都内で催されている秋の陶芸展へ出かけていた火野 銀平と平 仁兵衛だった。
しかし、いつもとちがって二人の手が高い位置で盃を置いている。
「平先生、俺はあんな現代の名品って呼ばれてる陶芸作品よりも、こっちの方が断然いいや。これ、譲ってくれませんか。もちろん、それなりの値段でお願いします」
「いやぁ、そう簡単にはいきませんな。こんな手作業の細工なんて、今は誰もできませんからねぇ」
「けど、実用性に欠けてますよ。先生は、生活に使える陶器しか持たない主義だって、いつも言ってるじゃないすか」
二人が押し問答をしている物はカウンターの上に置かれた珍妙な形の陶器で、それを見つめる太郎も腕組みをしたまま黙っている。
上部に穴の開いた箱型で、胴体には蛍焼きの透かしを入れたような網目がほどこされていた。しかも、絵付けは古めかしい伊万里焼き風で、釉薬も鈍い光を帯びている。
実用品よりも、調度品としての価値が高いことは太郎にも理解できた。
「確かに、この盃台ってのは現代の食生活からすれば、もはや化石みたいな道具です。しかし、たまには座敷に骨董品の箱膳に肴を用意して、これに盃を置きながらチビチビとやるのが愉悦のひと時なんですよ。ですから、私にとっては実用品です」
酒を飲み干した平は慣れた手つきで盃を台の穴に置くと、純米酒を手酌でゆっくりと注いだ。
どうにかして平を口説き、盃台を手に入れたい銀平が
「なあ、太郎さんからも頼んでくれよ。俺の宝物にしてえんだよ」
とおもねった。
しかし、太郎は冷ややかな口調で答えた。
「この盃台は、おめえには手に負えないよ……平先生みたいな酒座の達人は、嗜好性のレベルがちがうんだから」
実際、平が遊び感覚で持参したその盃台の存在感は太郎にかなりの重荷で、使った後に洗うにしても下手を打てないと内心戸惑っていた。亡きハル子の陶器趣味の影響はあるが、初めて目にした明治期の盃台の緻密な仕立てに、太郎はあらためて昔の日本人の粋を実感し、日頃の不勉強を恥じた。ただ、花鳥風月を描いたその絵柄が、なぜか太郎の記憶の隅に引っかかっている。
「ちぇ! 諦めろってことか……でも今夜は、古き良き時代の浪漫を楽しめたぜ。ありがとよ」
銀平が盃台に向かって手を合わせる姿を目にする平は、しばらく口元を結んだ後で、おもむろに語った。
「銀平さん。それほど欲しいのなら、譲りましょう。ただし、決め事を守ってもらいたい。まず、あなたの座る位置はまちがっている。テーブル席に移りましょう。そして、私と対座しながら飲んで下さい。盃台のしつらいや絵柄は、テレビも新聞もない時代には酒座のネタになりました。膳に用意された盃台の模様や色、形の妙を褒めたり評したりするのは、接待される側の基本でした」
毅然として訴える平と神妙な顔で聴き入る銀平の間合いは、誰もいない店内の空気をなおさら研ぎ澄ませた。
すると、その沈黙を裂くように玄関扉の木枡の鳴子が音を立てた。着流しに羽織をまとってやって来た中之島 哲男は、目ざとくカウンターの上の盃台を見つけた。
「これは、えらい風流な酒を飲んでまんなぁ。太郎ちゃん、わしにも盃台を用意してもらえんやろか。丁度ええ具合に、今日は着物やしな」
「中之島の師匠、いいタイミングですねぇ。これから銀平さんに、盃台の嗜み方を伝授しようと思っています。できればテーブル席でご一緒願えませんか。モデルになって頂きたいのですよ」
平が誘うと中之島はおもしろがって二の句もなく従いながら、銀平に訊いた。
「銀平ちゃん、この盃台が欲しいんちゃうか?」
「えっ、えっ? どうして判るんすか?」
腹を見透かされた銀平がどぎまぎすると、中之島がニンマリとして答えた。
「わしも昔、同じように盃台に魅了されたんや。けど、銀平ちゃんの場合とちがうのは、絵柄も色も付いてない、何の変哲もない白磁の台やった。わしはデザインや見てくれとはちがう、盃台に込められた日本人のもてなしの心に感動した……銀平ちゃん、どうして高い位置に盃を置く必要があると思う?」
テーブル席に座る中之島は、太郎が整える膳のしつらいに満足しながら銀平へ問いかけた。
「それは、箱膳や膳台の前に正座すると盃の高さが低くなって、持ちにくいからでしょ」
今しがたの平の言葉を受け売りする銀平に太郎がため息を洩らすと、中之島は首を横に振って答えた。
「わしの着物の袖を、よう見ときや」
中之島がテーブルに置かれた盃に手を伸ばすと、先付けの茄子の煮びたしの器に着物の袖が引っかかり、危うく転がりそうになった。さらには、お銚子を倒しそうになったりと、明らかに袖が邪魔をしていた。
「あっ! そうか! 盃台を手前に置けば、膳の上の器に袖が引っかかることはない。それに高い位置だから、料理に袖が漬かったりもしない……お客さんへの細やかな気遣いなのか」
銀平の気づきに、平が頷きながら口を開いた。
「その通りです。当時の人々はどんな気持ちでこの盃台を使ったのか、どんな風にお客さんを接待したのか。そんなシーンを想像しながら盃台を使って飲むことが、私は大好きなのです。このちっぽけな台は、酒を酌み交わすひと時をいかようにも楽しめる魅力を秘めているんです」
銀平は平の言葉に、盃台を見つめながら黙考していた。
その時、太郎がはっとして言った。
「おい、銀平。今、気づいたんだけど、この盃台の絵柄をお前の家で見たような気がするんだけどな?」
「……ああ、仏壇の祖父さんの位牌の前に置いてある盃の柄と、まったく同じなんだ。だから、これが欲しくなったのさ」
遠慮気味な銀平の返事に太郎が納得すると、平と中之島は目尻をゆるめて顔を見合わせた。
問わず語る銀平は、祖父の集めていたほとんどの酒器は昭和20年の東京大空襲で焼けてしまい、残っているのはその盃だけだと言った。銀平は、祖父が一番のお気に入りにしていた盃をずっと仏壇に置き、毎朝、酒を供えているのだった。
「なるほど。実はこの盃台、お銚子と盃との三つ揃えなのですよ。銀平さんのお祖父さんは、おもてなしのできる粋な人物だったのでしょうねぇ。だから火野屋さんの暖簾は、今もご贔屓さんや御馴染みさんに支えられているのですね……そういうことなら、話は別ですよ。銀平さんにこそ、この盃台は使ってもらいたいです」
平の両手が盃台の肌を押して、銀平の前に差し出した。
「えっ? 先生、本当にいいんですか? いくらなのか、教えて下さいよ」
「銀平ちゃん。今さら、何をビビッてんのや。それに、金の話しなんぞ無粋なこっちゃ。良かったら、わしからの贈り物にしたるでぇ」
中之島の声に、沈黙が漂った。すると、純米酒のお替りを運んで来た太郎が盃台に手を伸ばしながら言った。
「いや、それなら俺が平先生からお借りします。そして銀平だけでなく、うちのお客様みんなに使ってもらえるように膳と肴のしつらいを考えますよ。それが、この盃台を今に甦らせる価値じゃないですか……火野屋の魚と一緒に飲む酒だから、銀平のお祖父さんも、きっと喜びますよ」
静かな店内に、笑顔になって頷く男たちの影が揺れた。
「うむ……では、乾杯しますか」
平のかけ声に、盃台の上から酒を満たした三つの盃がしなやかに宙を舞った。