Vol.107 乾き梅干

ポンバル太郎 第一〇七話

 外苑や日比谷公園の植え込みに、新緑が映えている。ぬるんだ夜気の中、サツキも鴇色の花をほころばせ始めた。

 ポンバル太郎にもコートを着た客は消え、春めいたファッションが増えた。とりわけ、今しがたカウンター席に座ったジョージと高野あすかは目を引いた。青いストライプスーツのジョージ、あすかは淡いピンクのワンピースで、そのコントラストにぬる燗の純米酒をかたむける平 仁兵衛が目を細めた。
「そろそろ春の祭礼もあることだし、私も外へ出歩かなきゃ、足腰がなまっていけません」
「そうだぜ、平先生。浅草の三社祭りは来月だし、この前は隅田公園で流鏑馬(やぶさめ)をやって、たいそうな人出だったてえじゃねえの」

 隣りの火野銀平が、冷やした純米吟醸を飲み干した。元気な口ぶりと同様、半袖Tシャツ姿で、火野屋のロゴを入れた背中はうっすら塩を吹いていた。

 そんな築地市場のにぎわいを、銀平と平を挟む右近龍二が頷きながら喜んでいる。

 厨房の太郎も汗を拭きつつ、久しぶりに揃った常連たちの前へ小皿を配った。
「今夜は、混み合ってよ。ちょいと料理を待たせるから、こいつでもしゃぶっといてくれ。ちょうど今言ってた流鏑馬の露店で、剣が買ったんだ」

 皿の中の小さな赤い粒に、ジョージが金色の眉をしかめた。
「これ、なに? 食べられるの?」

 訝しげに鼻先を近づけるジョージへ、あすかがいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ジョージ、知らないの……それ、見た目とちがって美味しいのよぉ。食べてみてよ」

 あすかの押しつけに、銀平が笑いを噛み殺していた。龍二も豹変するだろうジョージに、吹き出すのをこらえた。

 ジョージが口に入れて数秒、ひょっとこ面のように口をすぼめた。
「オウ! シット! すっぱい!」

 途端に笑い出す常連たちにつられ、傍観していたテーブルの客たちもカウンターを覗き込んだ。誰もが口々に「あっ、乾き梅干か」「そりゃ、外人さんにはすっぱいよ」と同情した。
「みんな、ひどい! これ、食べ物じゃないでしょ!」

 ジョージが鼻息を荒げると、隣りのあすかが背中をさすって宥めた。爆笑した銀平は、苦しげに腹をさすりながら言った。
「おいおい、そりゃ、ちゃんとした食い物なんだぜ。しかも健康食品、ヘルシーなんだよ」

 龍二も笑い涙をハンカチで拭っているが、なぜか表情を変えない太郎に平が気づいた。
「太郎さん、どうしました? 乾き梅干をいたずらに使って、気分を悪くしましたか」

 平の言葉に、あすかが気まずげにうつむいた。声高な銀平も、調子に乗り過ぎたとばかり剃った頭を掻いた。
「いや、そうじゃないんです。実は、その乾き梅干を売ってた婆ちゃんが気になっちまって……昔、俺が買ってた乾き梅干に味がそっくりなもんでね」

 太郎は藁半紙のような包み紙から乾き梅干を取り出すと、思い出話を始めた。

 独身サラリーマンだった頃、柴又に暮らしていた太郎は、ストレスが溜まれば帝釈天近くの居酒屋で深酒を繰り返した。日曜の朝は宿酔ざましに帝釈天の参道を散歩したが、参拝客は酒臭い太郎を遠巻きにした。
「ちょいと、お兄ちゃん。これ、食ってみな。二日酔いがすぐに治るっけねぇ。酒を飲む前には、これを一つ食べりゃ大丈夫さ」

 太郎にそう声をかけた年配の女性は、露店の隙間で段ボールに山積みの乾き梅干を売っていた。面差しからすれば、六十歳前半。白いほっかむりの中から、越後訛りと皺を刻んだ頬を覗かせていた。

 女性は浦野タケと名乗った。タケに勧められて試食した乾き梅干には、懐かしい風味とすっぱさがあった。

 帰宅すると太郎の具合は不思議と回復し、それからというもの、帝釈天の祭礼があれば必ずタケの乾き梅干を買い出しに向かった。

 だが、ハル子と一緒になってポンバル太郎へ引っ越してからは、離れてしまった帝釈天に足が向かなかった。タケの記憶もしだいに薄れていた。

 太郎の声がカウンター席に流れている間、料理は客席へ出なかったが、店内の誰もが文句も言わず耳を傾けていた。
「どうやら、剣の買った婆ちゃんがタケさんらしいんです。あれから十八年ほど経ってますから、もう八十歳くらいでしょうね。その婆ちゃん、流鏑馬から帰ってた剣に手招きをしたそうです。あんたの横顔によく似た男の人が、昔、よく買いに来てくれたんだと言って……あれこれ話したらしく、それに妙な手紙を書いてもらっちまって」

 太郎が食器棚の隅から白い紙を取り出し、平に見せた。四つ折りにした和紙は開かないように糊付けされ、おもて面に「私がいなくなったら、読んでね」と乱れた字で書いていた。
「ふむ。筆致が乱れてますねぇ。どこか、具合でも悪いような感じだ」

 頬杖をつく平の後ろに、銀平と龍二の顔が並んだ。
「いなくなったらって、どういう意味でぇ?」
「何だか、うす気味が悪いな」

 その時、玄関の扉が力なく開いて剣が入って来た。剣のファンであるテーブル席の女性客に声をかけられたが、愛想を忘れている。

 学校帰りにしては遅く、銀平が
「この野郎、どこをほっつき歩いてんだよ」
とたしなめるても、いつもの剣らしい口ごたえがない。
「いいんだ、俺が帝釈天まで行かせてたんだ。で、どうだった……タケさん、乾き梅干を売ってたか?」

 太郎が問うと、剣は首を横に振りながら、その場にしゃがみこんだ。顔色は青ざめていた。
「ど、どうしたの、剣君! 大丈夫?」

 あすかが走り寄ると、テーブル席の女性客たちも心配そうに立ち上がった。その反応に飽きれる銀平の言葉を、剣の涙まじりの答えがさえぎった。
「店は出てたよ。だけどお婆ちゃんはいなくて、お孫さんって若い女の人が座ってた。タケさんのことを話すと、娘さんがそれはうちの祖母だって……だけど、五日前に亡くなったって言われた」

 孫娘の話しによると、タケは癌で死期を悟りながらも足腰が立つ内は乾き梅干を売るのだと、世話になった都内の寺社を回っていた。一人でも多く、手作りの乾き梅干と御縁をつないでくれたお客さんにもう一度会いたいと、無理を押して新潟から出稼ぎに来ていた。あの日、自分と出会った後で容体が急変し、帰らぬ人になったらしいと剣は吐露した。

 静まる店内に、厨房で湯を沸かすヤカンの音だけが響いていた。
「そうか……剣、これはお前が開けろ」

 カウンターから出て来た太郎が、剣の目の前に折り畳まれた和紙を差し出した。

 しゃくりあげていた剣は、タケの字を見つめて腹を決めたのか、丁寧に和紙を開くと書かれた文字を読んだ。客たちがみんな、酒を飲む手を止めた。

 前略 剣ちゃんと太郎さんへ

今日は、タケの乾き梅干を買ってくれてありがとうね。あんたとよく似た顔をした人は、やっぱり剣ちゃんのお父さん、太郎さんだった。
思い出したわけは、剣ちゃんの体から、あの人と同じお酒の匂いがしたの。
もちろん、剣ちゃんは飲まないだろうから、きっとお手伝いをしてるんだろう。
長く生きて来て、いろんな人たちと出会って来たあたしには、それが分かるの。
たぶん、もう長くは生きないから、神様がそう教えてくれたんだ。
剣ちゃんも、きっとお父さんと同じように、お酒を大事にする大人になる気がするよ。
だから、体のために乾き梅干をちゃんと食べなきゃね。そうして、剣ちゃんが大人になっても、乾き梅干をいろいろな人たちに教えてあげてちょうだい。
最後に、太郎さん、お久しぶりだね。これからもお元気でね。
御縁をありがとう。さようなら。

 かしこ             

 浦野タケより    

 読み終えながら嗚咽する剣の両肩を、太郎は優しく抱きしめてやった。だが、太郎の目尻からも、涙があふれていた。
「ええい! 湿っぽいムードじゃねえかよ! どうせ、しょっぺえ涙を味わうんだ。ついでに、すっぺえ乾き梅干をみんなで食べようじゃねえか」

 立ち上がった銀平の音頭に、沈んでいた客たちの顔色がにわかに戻った。
「そうですよ! 今夜はたくさん日本酒を飲みましょう! タケさんの乾き梅干のおかげで、二日酔いはしませんよぉ」
 龍二が乾き梅干を口いっぱい頬張ると、ジョージは目を丸めながら「オウ、クレイジィ。マジですかぁ?」と天を仰いだ。
 椅子から腰を上げた平は乾き梅干を握りしめながら、テーブル席の女性客に近寄った。
「せっかくの御縁を大事にですかぁ。じゃあ私も、生きてるうちに若い女性たちと仲良くさせてもらいましょうかねぇ」
「あら、先生! いつになくドサクサにまぎれて。でも、私がそばにいる間は、御小言がしょっぱいですよ」
 平に釘を刺したあすかが、太郎と剣にいたわるようなまなざしを向けた。
 よく似た親子の潤んだ瞳が、タケの手紙をもう一度なぞっていた。