雨どいからしたたる露が、マチコの玄関脇でほころぶ紫陽花をつややかに濡らしている。ここ数日は降ったり止んだりの空もようで、格子戸脇の甕には客の忘れた傘があれこれと刺さっていた。
毎年繰り返すシーンに、暖簾を提げる真知子は「そろそろ梅雨ねえ」と独りごちた。そのつぶやきが洩れる頃になると、マチコの献立にもきまって登場する肴がある。
大阪の津田が黒門市場から持参し、調理するハモ料理だった。今夜、厨房の奥では、津田の大きな背中が藍色の作務衣に包まれている。
「真知子さん、津田さん、連れて来たよ~、ハモ軍団!」
ガラリと格子戸が開いて、雨上がりの夜気とともに松村の連れる男たちがぞろぞろとカウンター席を陣取った。
「ようこそ、いらっしゃい」
真知子がおしぼりを渡すと、大柄な3人の男たちは口々に「おおきに!」「すんまへん」と関西弁を返した。
「おっ、何だよ八木? 今夜は関西弁なの?」
松村が、隣に座る日焼け顔の男に訊ねた。
「当たり前やんけ。ハモ食うのに、関西弁しゃべらな、どないすんねん」
おしぼりで顔をぬぐう八木がうれしげに答えると、松村もなるほどと納得し「津田さ~ん、美味しいハモ、頼んますね~」と厨房の奥に向かって声を投げた。
しかし津田の返事はなく、サクサクとハモの骨を切る音がわずかに聞こえていた。
「あれ? ……まっ、いいか。みんな、後で今夜の料理人を紹介するよ」
そう言って、松村は初めて連れて来た男たちを真知子に紹介した。
男たちは松村の高校時代の同級生で、滋賀出身だった。今は全員が東京に暮らしている。
3人は、口々に冷酒を頼んだ。
「俺以外、みんな一流企業のエリート。将来は、会社のトップの座を目指してるやり手の営業マンだよ」
松村が真知子に苦笑いしてささやくと、八木と2人の男たちはすでにゴルフ談義に盛り上がり始めていた。
「みたいね……みんな、パワーの塊っぽいわね」
すると耳ざとい性質なのか、八木がすかさず真知子に口を開いた。
「そうですねん、ゴルフもパワーヒッターでっせ! 俺ら全員、でっかいドライバー持って、300ヤード近う飛ばしますから。おい松村、最近ゴルフはどやねん?」
「はっ、はは……俺はお前たちみたいに野球部出身じゃないから、上達しなくてね。月謝ばっかり高くかかって、俺には向いてないみたいでさ」
顔を曇らせる松村が、いつもの口調に戻っていた。
「松っちゃん、お前も営業マンやろ。出世しよう思うたら、やっぱゴルフの腕は大事やで。今は使いやすうて、飛ぶクラブもあるぎょうさんあるぞ」
一番奥に座るスポーツ刈り風の男が、冷酒を舐めながら言った。
「あ、ああ……それは、分かってんねんけどな」
松村が返事をためらうと、真知子が「お待ちどうさま、“ハモの落とし”ね」と涼しげなガラス鉢をカウンターへ置いた。
花が開いたように真っ白に盛り上がったハモの身は、繊細に骨切りされ、小皿の梅肉の赤い色と調和している。
「おうっ! うっ、うまそやな~」
七・三分けにした男がせわしなく箸を手にして叫ぶと、それを合図に3人の男たちはハモの落しを口にほうり込んだ。
「う~ん、なにわの夏の味や」
「これ、たまらんわ!」
男たちの声音が、生粋の関西調に変わっていた。
「見てみいや、松村。ハモかって、こんな大きい、分厚い身やないとうまないやろ。大きいことはエエことや。人間の志かて、そうやんけ」
八木の太い声に黙り込む松村に、真知子がふうっと溜め息を吐いた時、カラコロと厨房から下駄の音が近づいた。
「それは、ちゃいますなあ……ハモの落しには中ぐらい、700グラムほどのサイズ。ハモちりやったら、もうちょっと大き目。それより大きすぎるのは、脂で大味になってまうんです。ようは、ほどほど真ん中ぐらいがええんですわ」
手ぬぐい鉢巻を取りながら、津田がカウンターに現われた。
男たちは、老練な津田を前にして圧されるように黙った。しかも八木は、「うわっ、津田の親っさんじゃないですか!?」と目も口も丸めていた。
「えっ? えっ? いったい、どうなってんねん?」
鳩が豆鉄砲をくらったような松村の前で、真知子も唖然とするばかりだった。
「この前、お顔を拝見したばっかしやのに、ひょんな所でお会いしますな。さっき厨房でお声を聞いてて、どことのう八木さんに似てはるなあと思うてましてん。しかし、和也君のお友だちとはなあ。どうやら、御縁があるようですなあ」
津田は八木に丁寧なおじぎをして、ポカンとしている松村に笑った。
「とっ、とと、とんでもない。こちらこそ、先日はありがとうございました」
八木は血相を変えて立ち上がると、深々とおじぎを返した。
5月から毎週、八木は部長代理として大阪支社での営業会議に出張していた。その大阪支社長が惚れ込む津田の店「ともしび」に連れて行かれ、薫陶を受けたばかりだった。
「松村、頼むよぉ。津田さんがいらっしゃるなら、もっと早く言ってくれなきゃあ、俺の立場がねえじゃん」
今度は八木がいつもの言葉に戻って、媚びるように赤面した。
「いやいや、そんなことはおまへんで。お見受けしたとこ、皆さん、優秀な方ばっかりのようですな。ただ……どんなもんも、それぞれに“ちょうどええ”サイズちゅうのがありますねん。ハモだけちゃいます。例えば、この骨切り包丁はわしが30歳で師匠にもろた物です。今はこないに小さくて、刃の身が薄うなってまっけど、最初はけっこう重さがありましてな。それが、だんだんと砥いでいくうちに、自分の手の一部になってきまんねん」
津田が取り出した巻き布には、数々の包丁がしまわれていた。そこに入っている3本のハモ切り包丁は、どれも誂えたように、同じ刃の大きさと輝きを持っていて、手脂がしみ込んだ柄はほど良く黄色を帯びていた。
「いわば、これがわしの“ちょうどええ”サイズ。けど、そうなるまでには自分の料理への姿勢や形ちゅうもんが出来上がってなあきません。ゴルフかて同じでっしゃろ。飛ばしてボギーもあれば、きざんでパーもある。自分のスタイルを身に付けてこそ、ほんまに自分に合うクラブが揃うのちゃいまっか」
男たちは、津田が手にする銀色のハモ切り刃を見つめつつ、「やっぱ、道具より腕か……俺ら、まだまだやなぁ」と声を合わせた。
「松村……お前のちょうどの生き方って、どんなんや?」
八木が冷酒グラスを飲み干し、ポツリと訊ねた。
「そうやなあ……人には誠実に、自分には正直に生きることかな。お前らみたいに、バリバリの出世街道を目指してやってみたい時もあったけどな。今はようやく自分のサイズが分かってきたんや……てっぺんに届くようなサイズやない」
そう言って、松村がさりげなく八木のグラスに冷酒を注いだ。
「そうか……けど、これからもずうっと、俺らはツレ(親友)やからな」
八木のしんみりとした言葉に男たちが静まると、真知子が口を開いた。
「ハモの骨切りって、めんどうで手間がかかっちゃうけど、けっこう楽しいのよ……和也君みたいね」
すると津田が「いっぺん試してみまっか? ゴルフクラブも、試打ちゅうのがおますがな」とハモ切り包丁を手にして八木にほほ笑んだ。
八木がはにかみつつ、松村の顔を見た。
「俺もやったことあるよ。難しいけど、けっこうおもろいで」
松村の優しげなまなざしに「……ほな、やってみよか」と八木が腕まくりした。
すると、二人の男がすかさずツッコんだ。
「おい八木! ハモ切りは“小きざみ”がポイントや! ドライバーみたいにはいかんで~」
賑やかな店内の笑い声に、青い紫陽花がうれしげに揺れていた。