Vol.94 いろは坂

マチコの赤ちょうちん 第九四話

ときおり吹くぬるい風が公園に咲きそろう桜にそよぎ、マチコの玄関へ誘った。赤い提灯の下でクルクルと回る花びらは、可憐な踊り子のようにも見える。
暖簾を掛けていた真知子は、ふっとほほ笑んで、そこにしゃがんだ。
「また、春が来たのね……おかげさまで、マチコも6年目。あなたも毎年、ここへ挨拶に来てくれて。ありがとうねぇ」
すると、真知子の頭上から、聞き慣れたしゃがれ声が降ってきた。
「いやいや~、こっちゃこそ、おおきに。毎年べっぴんになる真知子はんに逢えて、うれしいですわ! と桜も言うてる」
見上げると、春らしいベージュ色のコートを着た津田が笑っていた。
「うふふ……関西弁の桜の花ってのも、なかなか風流ね」
真知子は照れ臭そうに、頬を赤くして答えた。
「そらぁ真っちゃん、桜はなんちゅうても関西が本家や。ソメイヨシノのヨシノは、奈良の吉野のこっちゃがな。4月の半ばになったら、吉野山全体が桜に染まるねん。これが、この世のもんとは思えんぐらいの絶景や」
うっとりとして語る津田の肩越しに、ふいにヒョイと松村の顔が現われた。
「いやいや、我が郷里の彦根城の桜もスゴイっすよ! しだれ桜、彼岸桜いろいろあって。近江のお花見の名所だもの」
「おうおう、そやった。あそこもエエがな~。ほれ、真っちゃん。やっぱり桜どころは、関西やろな」
津田が松村と肩を組みながら言うと、「ちょっと待った!」とまたも後ろから声がかかった。
「津田さん、隅田川の屋形船に乗らずして、それを言っちゃあいけませんや。川に降るような桜吹雪ってのは最高に風情があって、オツなもんですよ」
ようやく暮れてきた通りの真ん中で、宮部が一升瓶を手にしていた。
「はいはい! 尽きない自慢話しは、座ってからしましょうよ。せっかく宮さんが、お酒を差し入れてくれるんだし」
真知子が、津田の背中を押しながら暖簾をくぐろうとした時、宮部がポカンとした顔で言った。
「へ? 真知子さんが注文したんじゃなかった? この酒」
「どういうこと? 私、ここ4、5日は注文してないわよ」
最後に店に入った宮部は、酒瓶をカウンターに置きながらつぶやいた。
「やっぱりかぁ……実はこの酒、一本だけ在庫で残ってたんだけど、確か真知子さんに頼まれてたような、そんな気がしてさ。一応持っては来たんだけど。どうやら、あっしの勘ちがいか」
白い包み紙に透けているラベルを見た松村が、「あれ? それって津軽のドブロクじゃない。プチプチって活性してるヤツでしょ? 以前、ここで見た記憶が……あっ!ああ~っ!」と声を上げた。
「何じゃい? ビックリするがな、急に大きな声で」と、津田はタバコをカウンターに落としながらたしなめたが、同時に宮部も、思い出したように「うわっ!」と叫んだ。
いぶかしい面持ちで津田は真知子を見たが、そこには、唖然と目をみはる顔があった。
「……辻野さんのお気に入りだったの。最近は誰も飲まないから、注文をしてなかった……きっと、忘れないでくれってことかな」
真知子の真剣な表情に、みんなが黙り込んだ。
とその時、開いたままの格子戸から、ついっと風に乗って桜の花びらが舞い込んだ。それに続いて、コートの肩を払う澤井が入って来た。
「いや、驚いたね。久しぶりに裏手の“いろは坂”を回って来たんだけどさ。ずっと枯れてた桜の古木が、満開に咲いてんだよ。驚いちゃった! あの桜って、青森の弘前城公園から持って来たものらしくってさ、昔、辻野さんとよく坂を歩いたんだよ。なぜか今夜は、寄ってみたくなっちゃってさ。あははは、は、は……どうかしたの、みんな?」
澤井の言葉に、声を失った松村と宮部が目を合わせた。
「いろはにほへと……か。辻野さんの口癖だったわ。『真知子さん、“いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ”だよ。香り良くて美しく咲いてる花も、やがては散ってしまう。人間だって同じだよ。だからこそ、いつも、いい仲間と楽しいお酒を飲みたいよなあ』って」
突然の話にギョッとしながらも、カウンターの隅に座りつつ宮部から事情を聞いた澤井は、「なるほどね……俺のこともそうだけど、辻野さんらしいや」と、目尻をほころばせた。

すると、津田の穏やかな声が聞こえた。
「まあ……せっかく天国から辻野はんが降りてきはって、みんなをここに呼んでくれたんや。今夜は久しぶりに、一緒に春を楽しもうやないか」
津田はうれしげな顔で、カウンターに落ちた桜の花びらをつまみ上げた。
真知子が「うん……」とつぶやいて、ドブロクの栓をポンッと開けた。
「その音、懐かしいね」
松村の声に頷くみんなの瞳が、ほんの少し潤んでいるようだった。