Vol.93 桃の花

マチコの赤ちょうちん 第九三話

通りを抜ける夜風のぬるさに、男たちは一人また一人と、コートを脱いで歩いて来る。街灯に照らされる公園の植え込みでは、ポツポツと緑色の新芽が頭を覗かせていた。
マチコの暖簾を揺らす風も、どことなく春の気配を感じさせた。それと入れ替わりに、店内のいい香りが玄関先へ漂っていた。
ほんのりとした匂いに、やって来る客たちは頬をゆるませた。
「おっ……いい匂い。へえ~、ずいぶんとまた、どっさりの桃の花だね」
蔵元から届いたばかりの新酒を両手に、宮部がうれしげに入って来た。
「あら、宮さん。お酒、わざわざ持って来てくれたのね、ありがとう。この桃も、ある人が持って来てくれたのよ」
カウンター越しに真知子がほほ笑み、花瓶に活けてある桃の枝を見やった。
その時、厨房の中からトントンと包丁を使う音が聞こえた。
「おや? 誰か、お手伝いですか? 真知子さん」
宮部が、そろりと厨房を覗き込んだ。
狭い部屋の奥で、藍色の作務衣がゴソゴソと動いている。その背中を見るなり、「そうか、ぼちぼち長野も春ですねえ~。てことは、桃の主は彼ですか」と宮部がうれしげに手を打った。
ふいにポンッと鳴った音に振り返ったのは、加瀬俊一の顔だった。
「これは宮部さん、お久しぶりで! 今日は長野の山菜をたっぷり持って来ましたから、お楽しみに」
天婦羅を揚げているのか、油のはぜる音の中で加瀬の声が響いた。
それに宮部が挨拶を返そうとした時、甲高い声が割って入った。
「イエイ! 今夜は超ラッキ~じゃん。加瀬さん、お久しぶりっす~」
現われるやいなや、松村がクンクンと鼻を鳴らして厨房に首を突っ込んだ。
そんなようすに真知子がニンマリとしていると、カウンターの真ん中からドスのきいた声がした。
「おう、アンチャン。もうちっと、静かにできねえかよ」
そこは、いつもなら津田の定席だが、今夜は黒ブチ眼鏡に短い白髪頭の初顔の男が座り、燗酒をグイっとあおっている。
松村は、鋭く険しい男の視線に気おされて、「あっ、す、すみません」と思わず口をつぐんだ。
「今時の若ぇヤツは、礼儀ってもんを知らねえ。それに女将。あんた、この桃の花をぎょうぎょうしいとは思わねえのか? ここは、男相手の居酒屋だろう。オネエちゃんが集まる店じゃねえんだから、ちゃらちゃら花飾るのはやめてくんねえか。それにな、俺っちは桃の花が大きれえなんだよ」
酔ってきたのか、男のろれつはもつれている。
その言い草に宮部がむっと表情を変え、カウンターに座るほかの客も眉をしかめた。
「お言葉を返すようですけど、花を飾るのは、ウチの流儀ってもんです。それに、お客さんの側にも、マナーってもんがあるんじゃないですか」
何か言い返そうとして中腰になった松村を、真知子が押さえながら、きっぱりと男に言った。
「何だと! じゃあ俺っちは、この店にそぐわねえってのか」
凄むように、男が腕まくりをした。皺とシミの浮いた腕には、薄く青い刺青が残っていた。
「うっ……」とまわりの男たちが目を止めて、怯え顔になった。
しかし、真知子はいっそうキリリと顔を引き締めた。
そして、無言の客たちにほくそえんでいる男へ真知子が近づいた時、背後から加瀬の声がした。
「……ったく、どこかで聞いた声だと思えば、源治郎さん、やっぱりあんたか」
何事が起こったかと厨房から飛び出してきた加瀬は、抜き身の柳刃包丁を手にしていた。しかし、男の顔を見た途端、鋭くとがっていた加瀬の目がほころんだ。
「うん? お前、誰でぇ?……ぶっ! あー、こりゃ加瀬の若旦那じゃねえですかい!」
男は酒を吹き出しながら、一瞬にして、般若のような表情を真顔に戻した。
「……え!? どういうこと?」
そうハモった松村と宮部が、小首をかしげている真知子と視線を合わせた。
「この人、昔、ウチの会社のガラス職人だったんですよ。私が、高校生の頃、職人頭になったんですけど、親方と大喧嘩して、辞めちまった。腕は良いんだけど、とにかく頑固で、融通がきかない人でねえ。その刺青も、若い頃に先輩の職人と賭けして負けちゃって、約束でしょうがなく彫っちゃったんです。そんな性格に奥さんと娘さんは愛想つかして、ずっと独り者。相変わらずそうなんだろ、源さん?……まだ、憶えてるよ。桃の花の絵柄が原因で、親方と喧嘩になったんだよな。頑固なあんただから、まだ、あの時のことに、こだわってんだろ。だから桃を見ると……そうだろ」
呆れる加瀬の視線の先で、男は今しがたの威勢はどこへやら。人が変わったようにおとなしくなり、頭を掻いた。
「……へい、面目ねえ。だけど、いっていどうして、若旦那がここにいなさるんで?」
キョトンとする男の前で、加瀬は包丁をしまいながら、はにかんだ。
「もう、若旦那じゃないんだよ……源さん、加瀬ガラス工芸店は無くなったんだ」
「へっ? 若旦那、年寄りをからかっちゃいけませんや。あれほど、しっかりした会社が、そう簡単に……」と言い返す源治郎だったが、加瀬や彼を見る客たちの態度に、自然と口が押し黙った。
「……でも、今の方が幸せだよ。長野でガラス工房を開いてね。食って行けてるだけの生活だけど、何よりも、自然と人と、家族に恵まれて、一所懸命生きてることを実感できる。……そうだ、源さん。一度長野に来てみないか? あんた……何もやることがないんだろ。独りで寂しいんだろ。だから、さっきみたいに噛み付いたり、怒鳴ったり。本当は、誰とも仲良くしたいくせに、相手をしてほしいくせにさ……おいでよ。ガラスをいじれば、またきっと、楽しくなるさ」
加瀬は、源治郎がまくったセーターの袖を直しながら、やさしく声をかけた。
「……そ、そりゃ、ちっと」
源次郎は、どぎまぎとして盃の酒を飲み干した。
「何だよ、あんた。さっきまでの啖呵は、どこ行っちゃたの? 案外と肝っ玉、小さいんだねえ。信州でしばらく過ごせば、その性格も治るんじゃないの」
源治郎の性格を見抜いたように、松村がほくそえんだ。
「うっ、うるせいや! 外野はすっこんでろ。……若旦那、せっかくのお言葉ですが、あっしにはもう、ガラスを扱う腕なんぞありやせん。こんなに錆びついた男なんぞ、使い道はねえですよ」
赤面する源治郎に、松村が「ほんと、ヘンコツオヤジだな」とつぶやいて、冷酒をあおった。
その時、口をへの字にして黙る源治郎の前に、緑の香りを漂わせる山菜の天婦羅が置かれた。
「源治郎さん……その答えは、料理とお酒を召し上がってからよ」
真知子の声に、加瀬が言葉をつないだ。
「俺が作ったんだよ。山菜は、手で摘んできた。もちろん、長野の自然の中でね。その尺ヤマメは、手製の毛バリで釣ったんだ。そして……あんたの職人技を、子どもの頃に指をくわえて見ていた俺が、今、こういうのを作ってんだよ」
加瀬はさりげないしぐさで、桃の花もように彩られたガラスの盃を、源治郎に差し出した。
ほぅ~と感心する客の声をよそに、源治郎はまばたき一つせず、盃を見つめていた。

「こっ、これだ……こいつだ! 思い出すよ。あっしが絵付けしたかったのは、こんな桃の花だった」
源治郎の震える指が、盃を握った。
それをなぐさめるように、真知子の白い手がそっと酒を注ぐと、桃の小枝から花びらがふわりと舞って、音もなく盃に浮かんだ。
「ほら……長野の春が誘ってるよ。源さん」
加瀬の声にうなずく源次郎の瞳に、淡くあたたかな桃の花が揺れていた。