通りをゆっくりと過ぎて行く屋台のチャルメラの音が、秋の夜空に似合う頃になった。
マチコでは、日ごとに、しみじみと燗酒に耽る面々が増えていた。
ところが、今夜のカウンター席には毒づくような大声が響き、盃をなめるテーブル席の男たちは、一様に顔をしかめていた。
「ヒック! まあ、スーパーマーケットの広告宣伝部なんて、慣れりゃ、難しい仕事じゃねえさ。そ、それによ、支配人ともいい感じだし。あはは、楽勝だよ、楽勝! やっぱ今の時代、転職するならコネだね、コネッ!ありがとよっ、松村」
ネクタイ姿の太った男が、松村に向かって唾を飛ばしつつ、昂揚していた。赤ら顔でせわしなく扇子を振る姿には、落ち着きのない性格が見て取れる。
その正面では、真知子がうんざりした表情で冷酒グラスを拭いていた。
「おい! いいかげんにしろよ、栗田。もう少し、空気を読めよ、空気を……俺のダチにしてもマチコはまだ2度目だろ? 声もそうだけど、デカイ面をしすぎなんだよ」
周りの怪訝な視線を気にする松村は、気色ばんだ口調で言った。
「な、何でぇ~。硬いこと言うなよ。お前には迷惑かけたし、お、俺もどうにか腰が落ち着きそうだから、礼も含めて、こうして、飲んでんじゃんか」
栗田と呼ばれた男は、松村の首に腕をからめて、酔った口を尖らせた。
「どうかねぇ……また腰くだけってのも、ありそうだし」と、端っこの席で澤井がぼそっとつぶやいた。
途端に、「な、何だとぅ……もう1回、言ってみろ! ウィッ」と栗田が振り向くと、澤井は「独り言、独り言」と知らん顔でスポーツ誌を開いた。
この夏に入る前、栗田は松村に連れられマチコに来ていた。松村の大学の同級生で、勤める広告代理店の同僚でもあった。
いつになくテーブル席に座った松村は、今夜とは別人のようなしょぼくれ顔の栗田と、声を低めて語り合っていた。
それでも地声が大きいのか、栗田の言葉は自然と真知子たちの耳に入り込み、彼がリストラ対象のさなかにあって、松村に相談を持ちかけていることを知った。
会話の中で、上司批判を臆面もなく始めた栗田を、松村は真剣なまなざしと口調で叱った。その内容に見え隠れする栗田の身勝手さ、脆弱さは、澤井や宮部も呆れるほどだった。
よく聞けば、今の広告代理店も松村の手助けで採用されて、しかも転職は4回目。たまたま居合わせた津田などは「あらぁ、どこ行ってもあかんわ。鈍感な栗田君か......ドングリやがな」と、真知子ともどもため息を吐いたのだった。
しらけムードで静まっているカウンターに、またもや栗田の声がした。
「だ、だ、大丈夫だって、松村。今度こそは、お前の顔をツブさねえよ。わざわざ、自分の得意先を紹介してくれたんだし。そそ、それに、取締役の販売部長が、俺たちと同じ大学だったんだよ。ヒック! それで『そうか、君もK大だったか。期待してるぞ、頑張ってくれ』ってよ。さっそく目をかけられちゃってさ。いやあ~、まいっちゃうぜぇ」
それを聞いて「あ~ぁ」と真知子が手を止め、澤井は「バッカヤ……」とこぼしかけた。
二人の反応に、松村がうつむきながら言った。
「……ったく、どうしようもねえな。お前、いったい誰に躾られたの? 親の顔が見たいよ。今夜、お前に渡したい物があったんだけど……さすがにこれ以上は、みんなの視線が痛くて、マチコにいられないや。それに、お前と飲むのも御免こうむるよ」
松村はゆっくりと立ち上がり、「真知子さん……ゴメンね」と1万円札を置いて出て行った。その背中に「ちぇっ、な、何でぇ!」と栗田はふてくされ、盃を飲み干した。
とその時、真知子が松村の座っていたカウンターを見て、フッと笑った。
「な、何がおかしいんだよ……うん?」
栗田は、真知子の目線を辿った。そこに、小さなドングリ2、3個で作ったキーホルダーが置いてあった。
「な、何だよ、これ?」
つまらなさげに摘み上げる栗田に、真知子がひと呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。
「栗田君はドングリ坊や……そう言いたかったんじゃないかな、和也君。あなたは、ドングリコロコロみたいに自分勝手に転がって、あっちこっちの池に入ったら、また山が恋しいって出て行く。そんなドングリ坊やのままだから、いつまでたっても根が生えない。おまけに人の気持ちには、いつも鈍感。だから、これを持って戒めろ!って言いたかったんじゃない?」
栗田の酔った鼻筋が、みるみるまっ赤に染まった。
「それにだ……さっきの転職した先での話し。役員が大学の先輩だったってやつさ。あれ、おかしいなって思わなかったか? 君は何度も転職してるんだから、逆に、厳しい目でチェックされるのが普通だろ。それなのに、そんな厚遇めいた話しなんて、降って沸くはずがないだろう」
澤井が、栗田の持つキーホルダーをしげしげと見つめて言った。
「じゃあ、あれは松村が……あっ、それじゃ!」
何かを思い出したかのように、栗田が立ち上がった。
「何だよ?」
澤井が、栗田を見上げながら訊いた。
「……前の広告代理店に入社した時も、同じようなことがあったんです。まさか、あの時の専務の言葉も……」
一気に酔いが醒めたように押し黙る栗田の前で、澤井がドングリのキーホルダーを揺らせた。
「あの……俺、どうすれば」
「人に迷惑をかけたら、まずはちゃんと“ごめんなさい”からでしょ」
真知子が、氷水の入ったグラスを差し出した。栗田は一瞬ためらったが、その水をグッと飲み干すと「御勘定は?」と訊いた。
「和也君と一緒に頂いたわ。それと、このオツリ、彼に渡しておいて」
ほほ笑む真知子から札と小銭を受け取った栗田は、キーホルダーをポケットにねじ込み、ダッと格子戸を飛び出して行った。
ふと見ると、抜け落ちた1個のドングリが、カウンターの上をコロコロと転がっていた。
「……しかし、和也も意外とマメだなあ。あんな物まで、手造りするとは」
優しげな澤井の瞳が、ドングリを追っていた。
「ほんとね……自分のことは、いつもドンブリ勘定なのに。ドングリとドンブリか……案外、ウマが合うのかもしれないね」
真知子の前で止まったドングリは、どこかしら温かい光を帯びていた。