通りにある公園からコオロギの声が聴こえ始め、ようやく日が沈んだ空には丸い月が浮かんでいる。マチコの提灯の色もほんのりと柔らかく、小窓から昇る湯気に温かみを感じる頃になった。
今夜の店内に客は無く、すっと吹き込む夜風がカウンターのススキを揺らしていた。
それを見つめる津田が、いつになく緊張した顔で座っている。何度も握りしめる右手の中で、カチッ、カチッと、何かが音を立てた。
「津田さん……席は、奥の小座敷に用意する?」
津田の心中を察したように、真知子が訊いた。
「いや……ここでええわ。面と向かう席よりは、横並びの方が話しやすいしな。それとな……今夜のわしのことは、明日からは忘れておくれな」
そんな言葉に、真知子はどぎまぎするだけだった。
一昨日、大阪からかけてきた電話で、津田は「ある人と、57年ぶりに逢うことになってなあ。その人、東京にいてはってん。……真っちゃん、でけたら、ちょっとの間だけ、マチコを貸し切りでけへんか」と言った。
その声は、別人のものに思うほど神妙だった。
真知子には、津田がどんな表情をしているのか想像もつかなかったが、よっぽど大事な人なんだ、ひょっとして理由ありの女性かも……でも、60年も前なんて、津田さんは子どもの頃だし……などと、勝手な憶測をめぐらせるばかりだった。
結局、真知子は津田に1時間だけの貸し切りをOKし、玄関には“7時まで貸し切り”の紙を貼った。
「ちぇっ、しかたねえな。駅前の居酒屋にでも行くか」
玄関先を遠ざかる客の声に、津田は「すんまへん、かんにん」と手を合わせると、手首の金時計を覗いて「そろそろ、6時やな」とつぶやいた。
シュンシュンと沸き始めたやかんが、真知子の包丁の音をかき消した時、格子戸がゆっくりと開いた。
背の低い白髪の女性が、風呂敷包みを手にして入って来た。女性は厨房の真知子に目を合わせると、軽い会釈をして、津田の後ろにゆっくりと歩いた。
その口元が、もどかしそうに皺を寄せていた。
まだ気づいていないらしい津田に、真知子が「津田さん、あの……」と言いかけた。
「分かってんねん。……けど、振り向くのが怖うてな」
津田の肩が小刻みに震え、鼻詰まった声になっていた。
「正ちゃん……良かったなあ、生きてて。ほんまに、良かった」
女性がふるふると声を震わせながら、津田の肩にもたれかかった。真知子は一瞬声を失くしたが、津田の顔は涙でクシャクシャになっていた。
「み、みっちゃん、ありがとうなあ……わし、それだけ、言いたかってん。あんたに、それ言わんことには、わしは死なれへんねん」
感極まったのか、津田はお~ん、お~んとばかり号泣した。抱き合う二人の老人は、泣きじゃくる子どものようだった。
そんな二人を前にして、真知子はわけが分からぬながら、今まで見たこともない津田の滂沱に、ついもらい泣きをしていた。
いつしか降り出した激しい雨が、しばらくの間、二人の声をかき消した。そして、雨脚がおさまるとともに二人も落ち着き、津田はまだしゃくり上げている女性を横に座らせ、静かに口を開いた。
「この人、山内光子さん。旧姓・島田光子さんちゅうねん。わしが、今、生きておれるのは、このみっちゃんのお蔭やねん。太平洋戦争が終った大阪で、5、6歳の浮浪児やったわしは野垂れ死に寸前やった。けど、5つ年上のみっちゃんと焼け跡のバラックで出会うて、わしの姉ちゃんになってくれた。それから2年間、ずうっと一緒に生き延びたんや」
津田は、メガネに溜まった涙をハンカチで拭うと、光子の横顔をじっと見つめた。
「……あの頃、ほんまにお腹が減って、明日はもう死んでしまうんちゃうかなあって、毎日思うてたねえ。おまわりさんが来るたんびに、みんな、蜘蛛の子を散らすみたいに曽根崎の闇市の中へ逃げ込んで。正ちゃんが、すんでのとこで捕まりそうになった時、ウチがおまわりさんの手に噛みついたこともあったねえ。けど、早う捕まった方が、なんぼか楽やったのにねえ。アホやったなあ」
遠い目を潤ませて語る光子は、「あら! ウチ、いつの間にか大阪弁に戻ってるわ」とはにかみ、しみじみと津田の顔を見返した。
結局、その2年後に大規模な浮浪児の一掃が行われ、二人は引き離され、それから60年近くも行方が知れなかったと津田が言った。
ようやく事情を知った真知子は光子にあらためて挨拶し、「でも、どうして57年ぶりに分かったの?」と津田に訊いた。
「不思議なことが起こってな。先月、わしは梅田の繁華街を歩いてて、小さい焼き鳥屋に入ったんや。そこらは、昔、曽根崎の闇市だった場所でな。屋台から商売を始めた人もいてんねん。その焼き鳥屋の親父が77歳で、いろんな話しをしてるうちに、何とわしらが浮浪児やった時、食い物を恵んでくれた屋台の兄ちゃんと分かった。おまけに『あんた、憶えてるか?』って、店の奥から古い箱を出してきて、これを渡されてん」
頬に涙の跡を残す津田が右手を開くと、錆びついたヘアーピンがあった。赤茶けてはいるが、小さな蝶の細工がほどこしてあった。
真知子が何かを訊ねかけると、津田は顔を紅潮させて問わず語った。
「当時、わしがアメリカ兵にもろうた物や。いつか、みっちゃんの髪にしたげようって思うてた。おまわりに取られるのがイヤで、屋台の兄ちゃんに預けてた……らしい。そんな記憶も、もう忘れてしもうてた。ごめんな、みっちゃん」
津田は、光子にペコリと頭を下げた。
「ううん。ウチも同じや。先月、大阪の友だちの所へ行っててね。懐かしい曽根崎辺りで夕食しようと思って、偶然そのお店へ入ってしまったの。そこで、正ちゃんらしい人が最近現れたことをお店のご主人から聞いて、ほんまに驚いてねえ。それで正ちゃんの連絡先を教えてもらったわけ。同じように、私も当時預けてたこれを、返してもらってん」
光子の開いた風呂敷には、ツギハギだらけの国民服が入っていた。
「憶えてる? これ、正ちゃんのやで。あんた、毎日転んで、ツギばっかり作ってたやろ。こんな小ちゃい体やってんなあ、あはは」
小さな虫食い穴の空いた古着を、光子が津田の太い腹にあてがうと、二人の顔に自然と笑顔がこぼれた。
いつしか通りの雨は上がり、どこからか虫の音が聞こえていた。
「そう言うたら、バラックの隅っこで、コオロギがよう鳴いてたなあ」
津田のその声にほほ笑んだ光子が、小窓から覗く満月を見た。
「お月さん見ながら、お饅頭食べたいなあって、よう言うてたねえ」
マチコの柱時計が、7時を打った。
ふと気づくと真知子の姿は消え、玄関先に、やって来たお客と交わす声が聞こえた。
「ごめんなさいね。……今夜はもう少しだけ、貸し切りにしてね」
丸い月が、真知子の濡れた瞳をやさしく照らしていた。