Vol.47 ふきのとう

マチコの赤ちょうちん 第四七話

※ 今回のストーリーは、第16回「男のラベル」、第37回「ガテン」に続いてお読みいただくと、より楽しんでいただけると思います

カウンターの上に、白い湯気が立ち昇った。笊の中で、茹で上げられた“ふきのとう”が、鮮やかな緑色を映していた。
「おっ、春だねぇ。“ふきのとう”じゃないの」
マチコに飛び込んで来た松村が、しめたとばかり笊に手を伸ばした。途端にその手が止まって、「うわっ!」と声が弾けた。
厨房からヌウと顔を出したのは、白髪にネジリ鉢巻をした津田だった。
「こりゃ! これはまだ下ごしらえ中や。つまみ食いはあかんで」
真知子がいるとばかり思っていた松村は、30センチほども飛び上がった。
「まったく……いつものことながら、お行儀が悪いわね」
松村が振り返ると、真知子が腕組みしながらため息を吐いていた。
「あっ、あは、あはは……真知子さん、そこにいたんだ。今夜は、津田さんとバトンタッチしてんの? あっ、この“ふきのとう”って、塚田君からなんだ」
松村は、カウンターに畳まれていた包み紙を手にして、体裁を取り繕った。
茶色の包装紙には、塚田哲也の名が書かれていた。
「そうよ。みんなに食べてもらいたいって。あの子、お隣の農家のおばあちゃんと、さっそく仲良しになったらしいわよ。この“ふきのとう”も一緒に朝採りしたんだって」
真知子はクスッと笑って、数枚の便箋を松村に渡した。茅葺民家の葺き替え職人になった塚田哲也は、3月初旬に岐阜の奥飛騨へ旅立った。手紙は、地元の棟梁や職人たちとようやく心が打ち解けたと記していた。
「飛騨はやっと雪解けやな。古い民家住まいやけど、荷物も片付いたようやし、ゆっくり山国の暮らしになじむことや。春の高山は、小京都の風情があって、ええでぇ」
津田は目を細めながら、少し冷めた“ふきのとう”に菜切り包丁を入れた。
「しかたないか。みんなが揃うまで、待ちますかね」と、松村が冷酒を注文した時、「ここですよ。どうぞ」と聞き覚えのある声が格子戸から聞こえた。
真知子が目をやると、赤ちょうちんの前に若い女性を伴った澤井が立っていた。
「あららら、春の珍事というか奇跡というか。いったい、どうしたの?」
驚きと冷やかしを混ぜる松村に、澤井が「ウッホン!」と咳払いして答えた。
「うるせえ。俺だって彼女の一人ぐらい……なんて、言ってみたいけどな。残念ながら、真知子さんのお客さんだよ! 駅前の交差点で『マチコって居酒屋さんを、ご存知ですか』って、訊かれてね」
連れの女性は、春めいた花柄のワンピースがよく似合っていた。薄化粧の白い肌と黒髪、清楚な雰囲気が育ちの良さを感じさせた。
真知子は厨房を出ると、「今晩は。お待ちしてました、江津子さんね」と迎えた。
「初めまして、内田 江津子です。今日はありがとうございます」と、女性は丁寧に挨拶した。
江津子はカウンターに座ると、津田の作る“ふきのとう”の酢の物、てんぷら、田楽、味噌汁を、言葉少なにゆっくりと食していった。
透明なクリスタルの冷酒グラスには、飛騨の辛口の地酒が注がれた。
澤井と松村は「悪いけど、江津子さんのいる間は席を外してね」と真知子に頼まれ、腑に落ちない表情のまま、奥の小上がりに腰を下ろした。そして、津田たちの会話に聞き耳を立てながら、江津子の記憶をたどっていた。
江津子は、小一時間ほどして席を立った。彼女は、津田と真知子に「ごちそうさまでした」とお辞儀すると、ひと呼吸置いて「私……やっぱり、夏には飛騨に行きます」とつぶやいた。
「すぐよ……3ヶ月なんて」と真知子がほほえむと、津田は「また、マチコにおいで。ええ人ばっかりや」と、澤井たちを柔和な目で指した。江津子は、二人にも深く頭を下げた。
「あっ……どうも」と、澤井は曖昧な会釈で江津子を見送った。彼女が去ると、松村は立ち上がって「そうだ、あの子だ! でも、何でここへ?」と津田に詰め寄った。
澤井が「おいっ、いったい誰なの?」と、松村の肩を後ろから揺すった。
「まあまあ、ちょっと待ちいな」
津田はタバコに火を点けると、満足げな顔で語り始めた。
「江津子さんは、以前、塚田君が交際してた人や。ほれ、お父さんが愛媛の大きな病院の院長で、猛反対して、あの娘さんを田舎に連れて帰ってしもたやろ」
その切り出しに、松村は「やっぱり!」と指を鳴らし、澤井は「あっ、そうかあ。名前に、聞き覚えはあったんだよ」と額を叩いた。「でも……どうして? あっ、そうか! さっきの会話。すげえ、塚田の奴!あの若さで駆け落ちすんの?」
「バカ! 早とちりしてんじゃないわよ」
興奮する松村の頭を、真知子がピシャリと引っ叩いた。
「江津子さんのお父さん、昨年末に癌で亡くなりはったんや。最期まで彼女を心配してなあ。倒れてからは、東京から無理やり連れて帰ったことも、ずっと詫びてはったんや。けど、彼女にはいろんな葛藤があってな」
津田の話しによると、江津子は帰媛してからも高邁な両親を嫌った。しかし、医師でありながら癌に倒れ、見る間に衰弱していった父の姿は悲しすぎるものだった。ましてや父の死後、病院は後妻である義母の長男が継ぐこととなり、江津子への態度は以前にもまして冷たく、厄介者同然の扱いとなった。
「それも重なって、江津子さん、また鬱病気味になったらしいの。それで塚田君にどうしても逢いたくなって、大学に勤め先を訊いたらしいのよ」
真知子の言葉に、澤井が「ふ~む、複雑だなあ」と頬杖を突いた。
「塚田は……どうして、今日来ないの?」松村が冷酒グラスを見つめたまま、真知子に訊いた。
「塚田君も悩んだのよ。……飛騨に行ってすぐ、塚田君に江津子さんから手紙が届いたの。社会人1年目、駆け出し職人の自分には、今の江津子さんを受け止める時間も力もない。どうすればいいんだろうって。それで、先週に津田さんへ電話が入って、彼女と一度逢って欲しいって。津田さんなら、きっと江津子さんを癒してくれると思ったのね」
真知子が話し終えると、なるほどと合点がいった表情の澤井と松村へ、津田が付け足した。
「けどな……この“ふきのとう”の方が、わしより上手やった。塚田君は、『飛騨の“ふきのとう”は、思ったより苦味が強いんです。本当に純粋なものは、反面、強い個性を持ってるんですね。彼女のお父さんも、娘に対して心から純粋だったんだと思います。僕、こっちへ来て、それがやっと分かりました』ちゅうてた。江津子さんには、その言葉が一番やった」

4人だけの店内が、しんと静かになった。
「……あいつ、カッコ良すぎるじゃん」
松村は“ふきのとう”のてんぷらを、口に放り込んだ。澤井も黙ったまま頷き、箸を動かした。
真知子と津田が目を見合わせ、笑った。
茅葺きの上で汗をかく塚田の姿が、4人の瞳に浮かんでいた。