Vol.46 アダン

マチコの赤ちょうちん 第四六話

水色の絵具を溶いたような透明なブルーが、真知子の前に果てしなく広がっていた。沖には、サバニと呼ばれる小さな漁師舟が浮かんでいる。
椰子の葉を揺らせる潮風は、もう夏の匂いを運んでいた。3月半ばではあったが、沖縄の海はキラキラと輝き、躍動感に満ちていた。
遥かな水平線を、南国の白い雲が流れて行く。
渚を散歩しながら、真知子は「ふぅー」と大きな伸びをした。胸いっぱいに息を吸い込むと、昨日までの自分が、一気に海の彼方へ飛んで行ってしまいそうだった。
「季節はずれだから、イマイチなんて言ってたけど……けっこう素敵だよ。和也君」
風に乱れる髪をなでつけながら、真知子はひとりごちた。
沖縄の旅に出たのは、得意先の旅行会社からの頼みでツアー客を集めていた松村に、「恩に着るから」と両手を合わされたせいだった。
フリーツアーで格安価格だったが、女一人でも家族的に扱ってくれるだろうと、真知子は民宿泊まりのプランを選んだ。
案の定、他の客はリゾートホテルを選び、民宿「万座」の利用客は真知子だけだった。
白い砂浜に、真知子は裸足で立ってみた。
「何もしない幸せ……うん、いい感じ」
ふと口にした言葉を、真知子はまんざらでもなさげにクスッと笑った。
足元で、オレンジ色の実が波に行ったり来たりしていた。
「アダン……だったかしら」
今しがた、その実の名前を教えてくれた民宿の女将・やえと、その横で真知子をじっと見返していた娘・ちひろの顔が浮かんだ。
やえの主人はマグロの遠洋漁業の漁師で、一年の大半は海の上。民宿は、彼女一人で切り盛りをしていた。ちひろは小学5、6年生に見えたが、「何年生?」と訊ねた真知子へぶっきらぼうな表情を返し、裏庭の方へ駆けて行った。
40歳半ばと見えるやえは、日焼けした額に皺寄せて「ごめんなさいねぇ」と少し訛った標準語で言った。
「沖縄の子って、アッケラカンとしてるように思ったけど、やっぱり人見知りするのかしら」
真知子がふた言目をつぶやいた時、どこからか聞き覚えのある歌が聞こえた。波の音にとぎれとぎれではあったが、それは最近TVで聴いた島唄と同じような節回しだった。
高い余韻を引く声は、椰子の林の奥から聞こえていた。真知子の足は、自然とそこへ向いていた。
バナナのような大きな葉を掻き分けて行くと、アダンの木の下でちひろが歌っていた。真知子が草を踏む音に、ちひろは、はっと振り返った。
「上手!上手! とっても素敵よ、ちひろちゃん」
真知子は大きく拍手したが、ちひろは顔を真っ赤にして脇をすり抜けて行った。その背中が、やたら怒っているようだった。
民宿へ戻った真知子は、海辺のバルコニーで洗濯物を干しているやえに、つい声をかけた。陽の光に、白いシーツがまぶしく踊っている。
「さっき、ちひろちゃんの歌を聴きました。お上手ですね」
やえは驚いた顔で「あの子が、東京の人に?」と、真知子に訊ね返した。
「いえ……私がたまたま耳にして。そのまま、逃げられちゃいました」
真知子の言葉に、やえは手ぬぐいで汗を拭き、声を低くした。
「息子が……あの子の兄が、2年前に東京へ行って。まだ一度も帰って来ないんです。連絡はあるのですが、忙しいし、旅費もかかるので、帰れないと。ちひろは兄が大好きで……だから、東京が嫌いなんです」
やえは、すまなさそうに何度も頭を下げると、デッキチェアーに腰を下ろして話し始めた。真知子は、彼女の横にゆっくりと座った。
やえの息子は、今年24歳だった。沖縄の水産高校を卒業後、漁師見習いになったが、結局は跡継ぎを拒んで東京へ出て行った。民宿の経営も「面倒だ」と嫌がり、音楽関係の仕事をしたいと飛び出した。
12歳ちがうちひろにとって、兄は父親代わりでもあった。二十歳を過ぎた兄に泡盛の酌をする役を、ちひろはやえにも譲らなかった。
そんな兄を奪った都会が、ちひろは許せなかった。以来、東京から客が来ると敵意を示すので困っていると、やえは遠い目をして海を見つめるのだった。
真知子が「息子さん、東京のどちらに?」と訊ねると、驚いたことに、やえの答えた住所はマチコから二つ隣の町だった。
別れ際、やえから「夜の食事は、うちの両親や親戚も一緒でいいですか。みんなで、賑やかにしましょう」と声をかけられた。
真知子は、にっこりと頷いた。晩御飯のテーブルには、ゴーヤチャンプルー、豚のミミガー、グルクンの刺身など、沖縄の家庭料理が山ほど並んでいた。やえの身内たちが持ち寄った手料理だった。
全員が地元訛りで、その言葉はまったく理解できなかったが、笑いに包まれる屈託のない会話に、真知子は感激した。
真知子は東京から持参していた極上の大吟醸を、女たちにふるまった。 泡盛に酔った男たちは、蛇皮線を持ち、磯笛を吹き、踊り出した。女たちは口々に島唄を歌い始めた。
そして、宴もたけなわとなった頃、やえの父親が声を上げた。意味不明だったが「ちひろ!」と発したところだけは、真知子にも理解できた。
誰が呼びに行ったのか、広間の入り口にちひろが立っていた。
「おじぃ、私は歌わない!」と叫び、ちひろは真知子を睨んだ。
「これぇ! ちひろ、何をするか」
やえが眉根を寄せて、すっくと立った。その時、真知子はちひろに近づいて、しゃがんだ。
真知子は後ろ手に持っていた紙包みを、ちひろの前で開いた。オレンジ色が、いっぱいに広がった。
「ちひろちゃん。このアダン、東京へ持って帰って、私のお店に飾るの。そして、あなたのお兄ちゃんを、お店に呼ぶわ。ちひろちゃんからだよって。だから、あなたの島唄も聞かせてくれる?……あなたの唄がこんなに上手になったよって、お兄ちゃんに伝えたいから」
ちひろは、真知子の顔をじっと見つめていた。静かになった家族たちがウンウンと頷き、笑顔でちひろを見守っていた。

「チバリヨー(がんばれ)、ちひろ!」
おじぃとおばぁの声がすると、蛇皮線がゆるやかに鳴り響いた。
ちひろは立ち上がると、すうっと息を吸いこんだ。そして、美しい音調で、島唄を歌い始めた。
青い海のように潤んだちひろの瞳に、オレンジ色のアダンが揺れていた。