小春日が、銀色の陽射しを朝の海に散りばめている。
ちぎった綿菓子のような雲が、水平線の上をのったりくったりと歩いていた。磯の香りが港を散歩する真知子の鼻先をくすぐったが、それには冬を予感する冷たさもあった。
「秋の鎌倉の海って、こんなに静かだったんだ……」
無意識に口をついた言葉に、浮遊するカモメたちが「ヒュールルー」と鳴いて答えた。
久しぶりの一人旅。ジーンズにスニーカーの軽装が、真知子の年齢をひときわ若々しく感じさせている。
こぢんまりとした腰越港は、この時期、旬の新さんまやアジ、サバなどがふんだんに水揚げされると聞いていた。
「わしの知ってる漁師でうまい干物をやってるのがいるから、ぜひ、そいつに会ってみなよ。“みゆき丸”って船だ」
前夜、民宿「汐見屋」の老主人に、しつこいほどそうすすめられた。
骨休めとはいうものの、美味しい干物ならば店の肴にと、つい早朝の港へ足が向いてしまう真知子だった。
波止場では、船べりがゆったりと上下していた。トトトン……と響くエンジン音の間から、子どもの泣き声が聞こえた。ふと見ると、倉庫の前に積まれた青い魚カゴが崩れ、幼い女の子が下敷きになっている。
「だ、大丈夫?怪我してない?」
駆け寄った真知子は、すくい上げるようにして女の子を助けた。右膝には血がにじんでいたが、傷は浅かった。
「お家はどこ?お母さんは?」
ハンカチで傷を覆いながら、そう訊ねた。
女の子は真知子の腕の中でしゃくり上げながら、一隻の船を指さした。
赤と白の胴体には、“みゆき丸”の文字が見えた。
真知子が「あら、この船だわ!」と声を洩らした時、「百合!どうした」と威勢のいい声が脇から飛んで来た。真知子が顔を向けると、赤銅色の肌とたくましい体格の男が、「あっ!」と目を丸くして立っていた。
「あの、そこで怪我をされて……」
そう話しかけた真知子の腕から、女の子が滑り下りた。黒い髪が「お父ちゃん!」と叫んで、男の胸に飛び込んで行った。
真知子が名乗り、怪我の具合と民宿の主人に紹介されたことを話す間、男は緊張したようすで黙していた。
うつむきかげんにうなづいた後で、男は浜崎と名乗った。
太い首筋からは、汗と魚の匂いがした。そして「汐見屋のオヤっさんの頼みか……」と言って、百合を抱き上げ「こっちだよ」とぶっきらぼうに真知子を誘った。
漁師町ならではの細い路地裏に、浜崎の家はあった。
「あの、ここで待ってますから」
真知子が長屋造りの玄関先で遠慮すると、浜崎は一瞬息を止めて、「ま、まあ、き、汚ぇ家だけど、上がってくれ」とドモった。
真知子は、百合と並んで茶の間に座った。
猫の額ほどの庭に魚が干され、白いシャツを着た浜崎の背中が忙しそうに動いていた。
「ねえねえ。おばちゃんって、そっくりだね」
ようやく泣き止み、涙の跡を残している百合が唐突に言った。
「えっ?何のこと?百合ちゃん」
訊き返す真知子の手を引いて、百合は襖を開けた。
奥まった座敷には質素な仏壇が据えられていた。その棚に置かれた一枚の写真が、真知子から声を奪った。
自分によく似た、しかし、少し前に流行った服装の女性がそこにいた。
ぼう然としている真知子の後ろから、声がした。
「カミさんのみゆきだ。3年前、亡くなっちまって……。びっくりしたよ、あんたを見た時には……」
浜崎ははっと我に戻り、真知子を卓袱台にうながすと、台所で干物を炙った。香ばしい匂いと薄い煙が、日なたに浮かぶ縁台を抜けて行った。
真知子の前に、焼きたてのサバの干物が乗った。
「おいしいっ!」
ひと口目で思わず感嘆する真知子だったが、浜崎の目はその笑顔を避けていた。
「すまねえ。あんたを見てると、思い出しちまって」
真知子は箸を上げたまま、動かなかった。そして、民宿の老主人が浜崎を紹介した理由を悟った。
沈黙の中、浜崎が訥々と話し始めた。
浜崎とみゆきは、この腰越の町で生まれ育った。幼なじみの二人は、ごく普通に結婚した。
だが、その2年後、突然の不幸が浜崎家を襲った。
みゆきは、突然の心臓発作で倒れた。
小さな漁師町だけに、“原因は、漁と酒をやる以外は何のとりえもなく、嫁に苦労をさせる浜崎のせいだ”と、噂になった。
「いろいろ言われたさ。けどな、カミさんは、いまわの際に言ったんだよ。『あんたが悪いんじゃない。私が選んだ生き方だから。運命だから。でも、お願いがあるの。私の名前を船につけて……百合がずっと忘れないように。それと……これからは、お酒はちょっとずつよ。私、ちゃんと空から見てるから』って」
酒豪だった浜崎は、ここ数年、毎日一合の酒しか飲んでいなかった。
「以前は、日焼けよりも酒焼けだったな」と、浜崎は少しはにかんだ。
「じゃあ……朝からだけど、一杯いかがですか」
真知子が箸を置きながら、ほほえんだ。
「うっ、うん……。いいのかな、酌なんてしてもらっても」
ためらいがちに答えた浜崎に、真知子はやさしい微笑みを返した。
「ありがとう……燗をつけてくるよ」
浜崎はようやく顔をほころばせ、立ち上がった。そして、おだやかな視線で真知子の後ろを見つめた。
振り向くと、百合がみゆきの写真を抱いて、すーすーと寝息を立てていた。