Vol.35 懐中時計

マチコの赤ちょうちん 第三五話

「じゃあ、お先です!」
11時になった柱時計を気にする塚田が、マチコを出て行こうとした。
「おっとっと。すまねえ」
そう言って暖簾越しにぶつかってきた相手を、塚田は怪訝な顔で見返した。男は上等そうな茶色のスーツと、ソフト帽を身につけている。
次の瞬間、塚田の表情が穏やかになった。
「なーんだ、辻野さんか。そんな服装だから、ぜんぜん分かんなかったすよ」
笑いながら駆けて行く塚田の背中に、辻野は「あっ、おい、帰っちまうの……」と言いかけて、口ごもった。
「ほんとだ。なんだよ、その格好。帽子までかぶっちゃって。お見合いでもしてきたの?」
頬を赤くしている澤井が、いたずらっぽい声で突っ込んだ。
「あららら!まるで演歌歌手みたいすね」と松村がはしゃぐと、横に腰かける水野が酒を噴き出した。苦笑いする辻野は「真っちゃん、熱いの」と小さく言って、帽子を取った。
白髪が、いっそう濃く見えた。
「珍しいじゃない、土曜日なのに遅くまで。でも、そのわりには飲んでないのね」
辻野の姿に真知子も驚いたが、それよりも看板前だというのに“しらふ”で現れたことが気になった。
酔いの回った澤井たち三人は、テーブル席で騒ぐ阪神タイガースファンと盃を交わし、「六甲おろし」を合唱していた。
辻野は一人でぬる燗をかたむけながら、左手で銀色の懐中時計を開いては、閉じていた。しばらくして、団体客が「タイガース優勝万歳!」と引き揚げて行くと、マチコは水を打ったように静かになった。
「ヒック、ウィ!じゃあ、俺たちもそろそろ。辻野さん、またねー。今度、そのファッションの理由を聴かせてよー」
松村の言葉に、辻野はいったん腰を浮かせたものの、「う、うむ……」とつぶやいて椅子へ戻った。
三人を戸口で見送った真知子が、赤ちょうちんを消した。
電車は、あといくつもなかった。店に残っているのは、辻野一人だった。
「辻野さん、終電、出ちゃうわよ。大丈夫なの?」
辻野は、黙ったままだった。真知子の片づける皿や器が、静まった夜の中で澄んだ音を立てていた。
柱時計が、12時30分の鐘を響かせた。と同時に、辻野が「ふう」と息を吐いて立ち上がった。
「帰るよ、真知子さん」
「そう……じゃあ、また来週」
ほほえむ真知子に、辻野がゆっくりと言葉を続けた。
「帰るってのは、津軽なんだ」
「ええっ!」
絶句と悲鳴がまざったような、真知子の声だった。
目を見開いたままの真知子に、辻野は堰を切ったように話し始めた。
「本当なら、今年の3月に定年退職だったが、延長を頼まれてちまって。次の製造部長が見つかるまでの約束だった。それが、先月ようやく決まった。というか、俺にはとうとうだな。ずっと言いそびれちまってさ。まあ……やっと、おふくろ孝行ができるんだが」
今夜は、最後に社長宅を訪問した帰りだと、辻野は言った。
「いつ、発つの?」
カウンターにもたれる真知子の声が、震えていた。
「……明日なんだ。だから今日こそはみんなに挨拶をと、心して来たんだが、切り出せなかった。情けねえ……子どもじゃあるめえし」
辻野は消えた赤ちょうちんに目をやりながら、口を真一文字にした。
そして、おもむろにスーツの内ポケットから懐中時計を取り出し、真知子に差し出した。
「真っちゃん。すまねえが、こいつをその柱に吊るしてくれねえか。俺が津軽に帰っちまってからも、ずっと動かしておいてほしい」
辻野は、指定席前の太い柱を見つめていた。真知子は、初めて店に来た辻野が「俺と同じ年月、働いてきたヤツなんだよ」とその手巻き式時計を撫でていたのを思い出した。
「でもこれ、辻野さん、一番大事にしてる物でしょ」
「……俺は、ずっとマチコにいたい。サラリーマン最後の2年間、ここのみんなに温められ、支えられ、慰められて、古びた時計のぜんまいを巻くみたいに俺も頑張れた。津軽に帰れば、こんな仲間は二度と作れないだろう。だから、ここでの日々を、いつまでも持ち続けたいんだ。我がままかな……」
二人は、そのまま押し黙っていた。
最終電車の音がキコトンキコトンと、秋の夜風に乗って聞こえた。
「あー、我がままだよ。その時計は、あんたの人生を懐からずっと見てきたんだろ。あんたの勲章じゃないか。だったら、これからも、ずっとあんたが持ってるんだよ。……それにしても、水臭いオヤジだよ」
聞き覚えのある澤井の声に、思わず真知子と辻野が振り向いた。
玄関に、帰ったはずの3人が立っていた。
「みんな、やっぱり内心は辻野さんのことが気になってさ。引き返して来たんだ」
水野が、優しげなまなざしを辻野に向けた。
「今夜だけは、“時間よ止まれ”だね」

そう言った松村は、辻野の手のひらから懐中時計を取るとリュウズを引いた。秒針が、ピタリと止まった。
「じゃあ……みんな朝まで、付き合ってくれるかい」
辻野が口を開いたその時、カウンターの隅で音楽が鳴った。塚田の携帯電話だった。
「もしもし……あっ、塚田くん。うん、真知子。携帯、忘れたんでしょ。今から取りに来ない?」
電話しつつ涙をぬぐう真知子が、懐中時計の蓋に映っていた。
うるんだ辻野の瞳に、仲間たちの笑顔が揺れた。