Vol.31 アーケイド

マチコの赤ちょうちん 第三一話

 ザーッと夕立が路面を叩き始めると、商店街を歩くまばらな人影が辺りの軒下へ駆け込んだ。買出し物を両手に提げる真知子も、小さな駄菓子屋の店先で雨宿りしていた。
マチコにほど近いそのアーケイドは、古錆びた天井部分がほとんど取り外され、雨になれば、誰もが恨めしそうに空を見上げた。
30年前までは東京でも名の知れた下町商店街だったが、今や道行く人は年配者が目立ち、閑散とする日も多かった。
「通り雨だから、すぐ上がるわよ。それまでこっちに座って、冷たいお茶でもいかが?」
その声に真知子が店内を振り返ると、白髪の婦人が麦茶の入ったコップを手にしていた。
普段着のような地味な藍色の絣が、よく似合っていた。老眼鏡の奥のまなじりが、細い皺を綴っている。
「ありがとうございます。じゃあ、遠慮なく」
初対面だったが、真知子自身が厚かましさを忘れるほど、婦人の表情は柔らかだった。
金平糖や醤油せんべいのガラス瓶が並ぶ店先は、古い家屋の雰囲気をとどめ、上がり框になっていた。茶けた色の畳が、真知子には懐かしく思えた。
「あなた、二つ先の角を曲がったところの、マチコさんの女将さんね。いつも常連さんが集まっていて、とっても楽しいお店なんですってね」
婦人はそう言って真知子の傍に座ると、三井たえ子と名乗った。
「あの……以前に、お逢いしていますか?」
麦茶に手を伸ばした真知子は、たえ子に訊ねた。
「真知子さん。あなたとお話しするのは初めてだけど、私はあなたがこのアーケイドに来るたび、いつも見ていたの」
答えるたえ子は、満面の笑みを見せた。
コップを唇に当てる真知子は、戸惑いつつ、目でうなづいた。
「この通りも、今ではお店も少なくなっちゃって。だんだんと若い人たちも来なくなってね。亡くなった主人と二人で店をやっていた頃は、近所の子どもたちの集会所みたいだった。そりゃあもう、賑やかだったの。でも、そんな子どもたちも大人になって……今の若い人たちはコンビニ世代だから、商店街になんて来ないの。お店の人と話すのが煩わしいの。威勢のいい魚屋さんなんて、叱られてるような気がするんだって。そんなもんかねえ。でも、寂しいわ。会話の消えた商店街なんて」
 たえ子のまなざしの先には、色褪せた商店街の写真がひとコマ飾られていた。
「お菓子のミツイ」と看板を掲げた店の両脇には、もう目にすることもなくなったキャラメルのポスターや、蚊取り線香の電柱広告も写っている。店先には、おかっぱ髪、坊主頭の子どもたちと若々しい夫婦の姿があった。
その女性の優しげな目元は、横に座るたえ子のものにちがいなかった。
たえ子は、真知子が魚屋の「魚辰」や八百屋の「八百秀」の主人たちと丁々発止でやり取りする姿にウキウキとしていた。
かつてのアーケードの賑わいが、真知子たちの笑い声を聴くにつけ、たえ子の記憶の中でよみがえってくると言うのだ。
「人生はいろんな人と出会って、話し合うからこそ楽しいの。そこから、大切なことを教えてもらって、考えさせられて、反省したりして、大人になっていくの。だから地元の商店街は、小さい頃から自分を育ててくれる先生みたいなものかしら……」
たえ子の穏やかな声が、真知子の耳にはっきりと聴こえた。
店先のガラス戸から空を見上げると、雨はいつしか上がっていた。暮れなずむ街が、夏の夕陽に染まっていた。

真知子がたえ子に礼を述べようと立った時、数人の男たちの声がした。
「たえ子ばあちゃん、こんばんは。あっれー、真知子さん。どうしたの?」
「おっ! 真っちゃんがいるなんて。こりゃ、たまげた」
早々とマチコに向かおうとしていた、澤井と辻野だった。
たえ子がなぜ自分のことを知っていたのか、真知子はやっと分かった。
「なあ、真知子さん。あそこに掛けてある写真の右端の子、誰だと思う?」
そう訊ねた澤井の笑顔が、写真の中でセピア色に輝いていた。