金曜日の午後7時、夏めいた夕陽が、水打ったマチコの玄関を金色に輝かせている。
日も長くなり、赤ちょうちんに灯を入れない内から盃を傾ける男たちは、どことなく幸せそうにも見えた。
「毎度、宅配便でーす。女将さん、荷物二つありますけど、こっちは冷蔵の生モノらしいっす」
顔見知りの宅配業者の青年が、両手に荷物を提げて飛び込んで来た。どちらも、差出人は“津田正造”となっていた。
「天神祭りが近いよって、あれやこれやと振興会の役や、頼まれ事が増えてなあ。しばらくは、真っちゃんの所へ顔を出せそうにないわ。すまんなあ。皆さんにもよろしゅう伝えといてんか」と、津田からは先週電話があったばかりだった。
真知子の開けるケースを、カウンターの水野と松村、そして辻野が物珍しげに覗きこんだ。
「ほうー。こりゃ、イイねぇ」嬉しげな辻野の声に、数人の客たちも席を立って集まって来た。
「鱧(はも)だっ!」
松村の声が、ひときわ高く響いた。
中には、ほどよい大きさに切れ分けられた肉厚の白身が、タップリと敷き詰められていた。十人前はありそうな切り身は、すでに小骨の“骨切り”も済ませてあって、いつでも調理できる状態だった。
「おぉー、ラッキー」
真知子がひと言も喋らない内から、その場の全員がご相伴に与るつもりになっていた。
「まっ、いいか。たまにはババンといきますか! でも、メニューは“酢味噌和え”だけよ。手間だから」
大判振舞いに、いい年の男たちが、子どものようにウンウンと頷いた。
「ところで、こっちの荷物は何なの?」
水野が、もう一つのケースを手にした。
「そうね……何かしら? 開けてみてよ」
真知子に頼まれて水野がダンボールを開くと、中からは新聞紙に包まれた“打ち鐘”が二つ、そして“擂りこぎ棒”と“金棒”が出てきた。
「何だい、そりゃ?」
老眼の辻野が、目をしばたいて訊ねた。「分かった! 天神祭りだ。『鱧食って、鐘叩いて、夏の大阪の風情を満喫しまへんか』ってことじゃない。津田さんらしいよ」
関西出身の松村が、指を鳴らして即答した。周囲の客たちは「そこまで、やる?」とささやきながら、半ば呆れ顔だった。
「本当に、そうみたい」
荷物に入れてあった津田の手紙を読み終えた真知子が、水野に便箋を回した。
前略 マチコの皆様へ
お久しぶりでございます。お暑い毎日ですが、お元気でお過ごしのことと存じます。
今年も、大阪に夏を告げる天神祭りがやって来ます。老爺の小生ですが、毎年この時ばかりは、年甲斐もなく血が騒ぎます。
今日はご無沙汰のご挨拶に、関西の夏の風物「鱧」を送りました。
皆さんで、ご堪能頂ければ幸いです。
ただし! 条件がございます。
同梱の鐘をコンチキチンと叩きつつ、皆さんで「お祭り気分」を賑やかにお楽しみ頂きたい。
不景気やリストラ、不祥事や悲しい事件と、世の中汲々としておりますが、マチコに来てはる皆さんは明るう楽しゅう、仲ようやって行きましょ。
真っちゃん、今晩はわしのツケで、振る舞い酒にしてあげてんか。
では、よろしゅうに。
草々
ご丁寧にも津田は、二つの鐘の叩き方と拍子まで書き添えていた。
「まったく、ワガママよねぇ」
腕組んでつぶやく真知子だったが、その瞳は優しく笑っていた。
開けっぴろげな津田の優しさが、真知子だけでなく、みなの心に染みていた。
「よっしゃ、ほなら、ワテが大鐘を叩きましょ」
松村が、流暢な関西弁で叫んだ。その声が終るか終らない内に、若いサラリーマン客が言葉を続けた。
「僕、天満の出身ですねん。高校生の頃、祭りで鐘叩いたことがあります」
「じゃあ、私、ご近所に挨拶してくるわ。少しの間だけ、お騒がせしますって」
玄関を出た真知子の背中に、松村の叩く鐘の音が心地よく響き始めた。
夏の夜風が、真知子の鼻先をくすぐった。
たそがれる空に、津田のにこやかな顔が浮かんでいた。