Vol.28 父の日

マチコの赤ちょうちん 第二八話

「岡さん、もう閉店ですよ。起きて下さいな」
カウンターで眠りこける岡 清太郎の背中を、真知子が揺すった。
ビヤ樽のように固太りした45歳の身体は、真知子の力ではビクともせず、らちがあかない。
「もう……しょうがないわねぇ」
真知子は電話の受話器を取って、ダイヤルした。
そして、「ふーっ」と溜め息を洩らしつつも、それをフッと微笑に変えた。目をやった清太郎の寝顔に、彼の息子の浩太と瓜二つの太い眉が覗いていた。

岡 清太郎が今夜初めて来たわけは、真知子が浩太と偶然知り合ったことにあった。
梅雨入りが近づいた6月半ば、昼下がりの町には、にわか雨が降りしきっていた。店の準備をしていた真知子は、突然起こった激しい振動とガラスの割れるような音に、「ひっ!」と、魚を焼く手をこわばらせた。
玄関に飛び出してみると、転倒したミニバイクの横で若い男が仰向けになっていた。どうやら濡れた路面に滑ったのか、出前用のおかもちから飛び出た丼鉢が、散々に割れている。
したたかに転んだらしく、身をかばった左腕には大きな擦り傷をつくり、血をにじませていた。
真知子はその青年を店に入れると、傷の手当てをしてやった。
高校生と見える青年は、岡 浩太と名乗った。駅前の小さなラーメン屋の息子だった。
その店のビニール製の赤いひさしに、真知子は憶えがあった。
「腰も打ってるんだから、病院でちゃんと検査した方がいいわよ」
包帯を巻く真知子へ、浩太は無言でうなずいた。そして、処置を終えた途端、浩太の腹がグルルルと鳴った。
二人は顔を見合わせ、笑った。頬を赤らめる浩太は、あどけない純粋そうな瞳をしていた。
ついでのことと、焼き上がったばかりのサバの切り身と味噌汁、ご飯を出してやると、浩太は素直に「じゃあ……いただきます」と掻きこんだ。
きれいに食べ終えて手を合わせる浩太が、言葉を続けた。
「あのう……この漬物、少し分けてもらえませんか」
小鉢に盛っていた、茄子の糠漬けだった。
「いいわよ。どれくらい?」
自家製の漬物だけに真知子も悪い気はせず、ビニールの小袋をいっぱいにして手渡した。
それから数日後、常連の松村がこんなことを口走った。
「駅前の岡ラーメンで定食を食べたんだけど、あそこの漬物って、真知子さんのとそっくりの味だよ」
分けてやった以上、どう使おうと勝手だが、業務用にされたことは真知子にとって心外だった。
そう思っていた矢先、ふいに岡 清太郎がマチコヘ現れたのだった。
「女将さん。この糠漬け、こちらで漬けたものですか?」
短かく刈った頭を掻きつつ、清太郎はカウンターに座った。その手には、わずかばかりの糠漬けを残すビニール袋があった。
「ええ……息子さんだと思いますけど、先日、少しお分けしました」
「やはり、そうですか。……失礼しました。息子からは隣町で買ったと聞いてたので」
清太郎は、お客があまりに漬物のことを不思議がるので、不審に思って浩太を問い詰めたらしい。
「美味しかったので、私がうちのお客さんに出したんです。まさか、こちらの手づくりとは知らず。申し訳ない」
「そうでしたの」
そう言って番茶を出す真知子に、ひと呼吸置いて、清太郎が口を開いた。
「実は、女将さんの糠漬け……うちのカミさんが漬けていたのと、同じ味なんです。だからあの野郎は、懐かしくて、こんなことをお願いしたんだと思うんです」
その言葉を聞いて、真知子は彼の隣に腰を下した。
清太郎と一緒にラーメン店を切り盛りする妻は、7年前に病死していた。
浩太を筆頭に育ち盛りの3人の息子を、彼は男手ひとつで育ててきた。そして、今春高校を卒業した浩太は、妻の遺影の前で、ラーメン屋を継ぎたいと打ち明けたらしい。
そんな事情を聞き始め、つい長話しになった真知子は、清太郎に酒を勧めたのだった。

電話の向こうで、浩太の声がした。
「もしもし浩太君。真知子です。そう、マチコの女将。遅くにごめんね。お父さん、お酒を飲んで寝ちゃってるの。迎えに来てあげて。……本当は、父の日の贈り物だったのね。あの糠漬け」
真知子の言葉に、浩太の声が詰まった。
「……はい、ありがとうございました」
小鉢に盛られた青い糠漬けが、清太郎のかすかな寝息の中で、みずみずしく光っていた。