ー誠に勝手ながら、本日貸し切りとなっております。マチコー
通り雨でにじんだ筆字が、赤ちょうちんの灯にうつろっている。
格子窓からマチコを覗く客たちは、賑やかな店内のようすにあきらめ顔で去って行った。
テーブル席、カウンターとも、20人の客で満席だった。
「真知子さん、ごめんね。何だか、常連さんに悪いな。さっきから、みんな覗いちゃ、帰って行くみたいだ」
徳利をのせた盆を真知子から受け取りながら、べっこうの眼鏡と髭をたくわえる北村が詫びた。彼のカジュアルな服装は、常連の辻野とマチコへ通っていたサラリーマンの頃とはうってかわり、個人企業家らしい雰囲気を感じさせた。
ひと月前、ひょっこりと現れた彼を、真知子はキョトンと見返していた。
鼻先を掻きつつ「ずいぶん、ご無沙汰しちゃって」と挨拶する北村に、「あらっ!」と、やっと記憶の糸がつながった。何度か目にした北村の癖だった。
今夜のマチコの宴は、彼が幹事をする大学時代の下宿の同窓会である。
「気にしないで。でも、ほんとによかったね。北村さん、独立して元気になったみたい。それに、こんなにたくさん集まるなんて、人望があるのね」
真知子の酌を受けながら、北村は言葉を詰まらせ、うつむいた。
「……いいや。大学一、二年生の頃の僕は、とっても嫌な奴でね。他人との付き合いなんて、ご免蒙るって主義だった。協調性はゼロ、挨拶もしない。なあ、菊池」
北村は申し訳けなさそうに、横ならぶ小柄な男へこぼした。
菊池と呼ばれた頭の薄い男は、盃を舐めながら平然と答えた。
「ああ、そうだった。お前はほとんど下宿にいなかった。どことなく偉そうで、嫌いだった。正直言って、今回の同窓会の件だって、何でお前が言い出しっぺなのか理解できなかったよ。だけど、梶田先輩からいろいろと聞かされて、それなら出ようと思ったのさ」
菊池のその言葉にしばし聞き入った後で、北村はこくりとうなずいた。
二人の会話に、真知子は、あれほどまで部下から慕われていた北村が別人に思えた。
「やっと約束を果たせる……。」
北村は眼鏡をはずしつつ、静かにつぶやいた。火照った顔が、レンズを曇らせていた。
社会人になる前に、人として自分を仕込んでくれた先輩がいるのだと、北村は表情を曇らせる真知子に返杯しつつ、思い出話を始めた。
梶田は、北村の一年先輩だった。明るく几帳面な性格で、のどかな岡山訛りは、上下を問わず学生たちに親しまれていた。
むろん、嫌われ者の北村へも、分けへだてなく世話を妬いた。
「挨拶もろくにできねぇ。電話も取りつがない。飲み会にも出やしねえ!いったいあいつは何様なんだ。あんな奴、ここから追い出しちまえ」
そんな北村非難が巻き起こっても、梶田は粘り強く声をかけ続けた。
北村をゆがませていたのは、家庭の問題だった。
父母の別居から兄弟の仲を引き裂かれていた北村は、東京に下宿することで、さらに孤立感をつのらせた。寡黙な上に、口を閉じる北村だったが、印象だけで彼をうとんじる学生たちは、そんな要因など知るよしもなかった。
「ごちゃごちゃ悩んでおっても、人間一人じゃ、おえりゃあせん。俺に言うてみろ。スッキリするぞ」
そう言って屈折した理由をつきとめた梶田は、北村の中で兄のような存在に変わっていった。
北村が4年になった年、梶田は留年していた。らくらく卒業できたはずの梶田が残留したのは就職浪人のためだったが、北村にはそうは思えなかった。その1年間、北村はさらにあれこれと諭された。
梶田とともに卒業を迎えた日、北村は4年間の感謝と非礼を彼に伝えた。
「北村よ。お前いつか、下宿におったみんなを集めて、本当の姿をもういっぺん見てもらえ。何年後でも、かまわん。ここの下宿生は、みんな根はええ奴ばっかりよ」
湯飲み茶碗で酒を酌み交わしつつ、梶田とそう約束したのは、もう13年も前のことだった。
北村が言葉を終えると、真知子の横に若白髪の男性が座っていた。その手には、真新しい日本酒を持っている。
「ほら! 今日はこれを、みんなに注いでまわる約束じゃろう」
男は微笑みながら、北村の背中をバンと叩いた。
「梶田さん。この酒、あの日と同じ銘柄……。」
卒業式の日に梶田と飲んだ、岡山の地酒だった。
頬を濡らす北村が、ゆっくりと酒瓶の栓を開けた。
「北村、今夜は幹事役をありがとう。遠慮なく、あの頃へ帰らせてもらうぜ!」
誰ともなく発した声に、「おうっ!」と、その場の全員が湯飲み茶碗を手にしていた。