鰯雲に見え隠れする秋の陽が、真知子の座る電車に淡い光を落としていた。
夕刻のラッシュアワーにはまだ間があるせいか、乗客も幾分少なかったが、それでもシートは満席のままだった。
品川駅で乗り込んで来たのは大きな風呂敷包みを両手に提げ、古びたリュックを背負った老婆だった。
「ごめんなさいよ。よっこらしょ」
車両の端で腰を屈めて荷を下ろす彼女に、周囲の乗客たちは訝しがるか、素知らぬふりを装うだけだった。
誰一人、席を立とうとはしなかった。
たまらなくなった真知子が、老婆を呼びに行こうとしたその時、卒然と人影が立ち上がった。スーツ姿の松村だった。
老婆は手を横に振り、座席を譲る松村に遠慮していたが、根負けしたのか何度も頭を下げつつ腰をかけた。
その様子に、真知子はホームへ降りてからも胸のすく思いだった。
二日後、松村がマチコヘやって来た。
真知子は知らん顔を通すつもりでいたが、話しのきっかけとなったのは「焼いてほしいんだ」と松村から渡された鯵の干物だった。
カウンターで新聞紙の包みを開く松村の口調は、いつになくしんみりとしていた。
「この鯵。一昨日、電車の中で知り合ったお婆ちゃんにもらったんだよ。千葉から毎週来ててさ。一つひとつ自分の手で開いて、干してるんだ。昔は旦那さんと船宿をやってたんだけど、シケで釣り舟が遭難したんだって。その時一緒に亡くなったお客さんの所へ、それからずっと届けてるんだよ」
松村はあの後、老婆の降りる駅を聞き出し、その改札口まで荷物を持ち運んでいた。
電車の会話では、老婆の行為が三十年余り続いていることを知った。
「裁判では、うちの主人に非はないと言われました。でも、いくらお詫びしても、しきれないんです。私にできることなんて、こんなことぐらい。お金で済むことじゃないし、そんなお金もなかったんです」
余計な昔話しを聞かせてしまったと詫びる老婆は、松村に「あなたは、心の優しい方ですねえ。今日は、いい出会いを頂きました。・・・・・・本当にありがとう」と合掌し、別れ際も姿が見えなくなるまで、小さな手を振っていたと言う。
松村の瞳は、鯵を見つめたまま動かなかった。
「お婆ちゃんだって旦那さんを失くしてるんだよ。誰が悪いんじゃない。急な悪天候のせいだった。それでも、家族を亡くしたお客さんは、やっぱりお婆ちゃんの旦那さんを憎んだだろうな。でも、長年のお婆ちゃんの真心が、ようやくお互いの気持ちを通じ合わせた。それを続けてきたお婆ちゃんこそ、本当の優しさを持っていると思うんだ」
黙り込む松村へ、真知子は静かに口を開いた。
「和也君。私、見てたの・・・・・・電車の中のこと。何だか、とってもうれしかった」
松村は恥らうでもなく、真剣な口調で言った。
「僕は今まで、あんなことできなかった。傍目に恥ずかしいとか、カッコ悪いって思うばかりだった。気がついたら立ち上がってた。自分でも何でだろうって、あれから考えた。でも、そんな風に考えてるのが、恥ずかしいことなんだと分かった。きっと、お婆ちゃんの健気な心が、僕に大切な何かを映してくれたんだって、今は素直に思えるんだ」
ようやく松村の頬がゆるみ、紅潮していた。
「じゃあ今夜は、またひとつ大人になったお祝いだ。この鯵、和也君へのお頭つきだね」
真知子の言葉に微笑む松村が、ゆっくりと合掌した。