Vol.131 わらじ

マチコの赤ちょうちん 第一三一話

ようやく冷えるようになった夜気のせいだろうか、マチコの小窓からは、いつになく声が澄んで聞こえる。
「おっ、この声は!」
店先でつぶやく松村が、にっこりと顔をほころばせた。その気持ちのままに勢いよく格子戸を開けると、またひと回り大きくなった塚田哲也の背中が野暮ったいジャンパーを着て、カウンター席に見えた。
横顔はほんのり赤くなっていたが、今ひとつ浮かない表情で、友人らしき二人の男と座っている。
「塚田君、元気だっ……」
松村が会話の止まっている塚田の肩を叩こうとした時、突然、隣の男が吠えた。
「笑わせんじゃねえ!お前は、裏切り者じゃないか。いっぱしな口、きくんじゃねえよ!」
男が怒気にまかせてカウンターを叩いたせいで、塚田の盃の酒はこぼれた。
それは、端っこに座る宮部が「うおっ!」と声を洩らすほど烈しかったが、塚田は動じることなく、おしぼりでカウンターを拭いてから独酌した。
真知子も厨房から忙しそうに顔を覗かせたが、松村の顔を見つけるや、片目をつぶった。いつもの、「任せるわね」の合図だった。
鼻息の荒くなったその男を、隣の連れは「もう、よせよ。久しぶりなんだしさ」となだめつつ、松村をチラと一瞥した。
「おいっ!酒に対して失礼な飲み方は、するなよ」
その声音にようやく気づいたのか、塚田は一瞬ビクンと肩を震わせ、ゆっくりと振り向いた。
「和也さん、いらしてたんすか?ちっとも分からなくて……すみません」
落ち着いて見えた塚田だったが、松村の声も耳に入らないほど、心ここにあらずのようすだった。一年ぶりなのに、素っ気ない挨拶だった。
酔った上の子どもじみた揉め事なら、とっくに宮部が仲裁に入っているはずだった。その宮部の目配せに、根の深そうな話だなと松村は直感した。
「まっ、積もる話しみたいだし。後でな」と、松村は宮部の隣に腰を下ろした。宮部も平静を装って、ことのなりゆきを松村にささやいた。
怒っている男は、塚田の大学時代の親友・末沢。その隣も同じく、泉。3人が顔を合わせるのは、5年ぶりらしかった。末沢はビシッとスーツを決めたエリート風で、金回りもいいのか、高い大吟醸ばかりをグイグイ飲んでいる。泉はチビチビと、塚田のペースに合わせてにごり酒を味わっていた。
お互いが近況を報告しているうちに、話がコジれて、末沢が激昂した。
「あの二人は、ゲームソフト会社の社員として多忙な毎日で、それは以前、塚田君も目指していた業界だった。三人でいつか、ソフト会社を作ろうなんて夢も描いてたらしいよ。でも、塚田君は、田舎暮らしの茅葺職人を選んだ。今さら仕方ないことだけど、塚田君が話してるうちに、『これからの社会には、ゲームで遊ぶより、自然と遊ぶ時間が大切だ』って言ったのが、気にさわったらしいよ」
宮部の言葉に、松村はふと、茅葺職人を塚田が選んだ時の言葉を思い出した……どんなふうに稼ごうかって選んだ仕事は、長続きしない。ごく普通に食べていけて、一生幸せを感じる仕事を見つけたかった……輝くような瞳が、彼の決意を物語っていた。
そんな回想をしている間も、塚田たちに会話はほとんどなく、何やら手荷物を開き合っていた。
すると、またもや末沢が大声を張り上げた。
「おいっ!せっかく俺たちが開発した新しいゲームソフトを持って来てやったのに、ゲーム機すら、もう捨てちまったってか!?それで、お前から俺たちへの土産は、この“わらじ”かよ。ただの、藁で編んだだけの!?呆れて、物が言えねえよ!」
怒りと酔いで真っ赤になった末沢は、手作りらしいわらじを、無造作に床へ投げ捨てた。塚田はひっくり返ったわらじを、まばたき一つせず、じっと見つめていた。
それを目にした松村が思わず腰を上げかけた時、真知子の声が響いた。
「あんたっ!物が言えないなら、そのペラペラうるさい口をチャックしてなさいよ!捨てたわらじは、私が貰うからね。イヤなら、とっとと帰って。御代は、けっこうよ!」
毅然として玄関を指さす真知子に、あろうことか末沢は「うるせえ、ババアっ!」と吐き捨て、出て行った。
水を打ったように静まり返る店内で、男たちは全員、言葉を呑み込んでいた。
「……ふっ、とうとう私も、ババアに仲間入りしちゃったか」
カウンターから出て来た真知子がわらじを拾おうとした時、うなだれていた塚田の手が、先にそれを握り締めた。
「俺が、必ずあいつに渡します。今日の無礼も非礼も、いつか謝らせますから」
塚田は真知子に小さく頭を下げると、やせ我慢した笑顔で、取り残されている泉につぶやいた。
「泉……俺、当初は茅葺職人を挫折しかけてさ。季節労働だから収入は少ないし、農作業したり、野菜売ってみたり……そのたびに、ゲームソフトの仕事を思い出してた」
「えっ!マジかよ!?じゃあ、何で、さっき末沢に……」
「あの頃は、本当にゲームが楽しかった。でも、今は俺、わらじ作りの方が好きだ。そうなったんだよ。辛抱しながら、コツコツと、自分に正直な生き方をしてるうちに。わらじって、けっこう難しいんだ。でもな、飛騨の民芸店に並んでる俺のわらじを買ってくれるお年寄りが、時々、手紙をくれてね。わらじのお蔭で随分歩くようになったとか、足の調子が良くなったって。そんな時、茅葺職人になって良かったって思うんだ。それに、俺自身、毎日わらじ履いて歩いてると、自分の生き方や器量をどことなく納得するんだよ」
塚田のしっかりとした語気に、真知子も松村たちもひと安心した。
「そうか……俺は最近、そんなの分からなくなってるよ。でも、末沢には末沢の生き方があって、塚田には塚田の生き方があって……俺みたいな優柔不断なのもいて……でも、お互いに、いつまでも支え合えたらいいな」
泉は、自分が貰ったわらじの編み目をさわりながら、小さくため息をついた。
「“籠に乗る人、かつぐ人、そのまた、わらじを作る人”ってね。世の中、うまいこと、持ち分が決まってくるものなんだ。心配せずとも、末沢さんもいつか、わらじを履いてみようかって気になるさ。さしずめ、あっしは“酒を運ぶ人”なんでね」

宮部がほほえんで、泉のグラスに冷酒の瓶を傾けた。
すると真知子が、「私は、“料理をふるまう人”」と酒の肴を出した。
「俺は“飲んでばかりの人”だけどさ、たまにはわらじ履いて、自分の人生、しっかり歩いてみよっかな」
松村が、泉の手にするわらじを物欲しげに見つめた。
「あんたは、ダメよ。人生けつまずいて、転んでばっかりだから、わらじの鼻緒が切れるだけよ。早いとこ、籠に乗れる身分にならないと、奥さんの鼻緒も切れちゃうわねぇ」
「あ~っ、何で分かるの?うちのカミさん、この頃プッツン切れてばっかなの」
笑いをこぼす塚田と泉の手のひらの中で、わらじの柔らかな色が揺れていた。