楠町30余年の酒蔵を束ねた170年間、時代の逆境を乗り越えた蔵元魂
鈴鹿川に架かる橋を渡れば、ひときわ聳える社屋に「宮」の文字を囲んだ亀甲紋が見えてきます。黒壁の蔵を延べる株式会社宮﨑本店の敷地は、およそ8,000坪。170年の歩みを髣髴とさせる6つの棟は、国の登録有形文化財の指定を受けています。
「当社の創業は弘化3年(1846)で、蔵元初代の宮﨑 庄三郎までは庄屋的な存在だったようです。また、伊勢湾に面した楠町は農業だけでなく漁業も盛んで、網元も兼務していたと聞いております。庄三郎が始めたのは、粕取り焼酎や味醂(みりん)醸造の蔵でした。その後、芋焼酎から甲類焼酎へと移り、昭和に入って清酒醸造を手がけています。明治時代の楠町には、焼酎蔵元が30軒以上ひしめき合っておりました。町の古い資料を開くと宮﨑姓の蔵も何軒か見られ、私の先祖が分家して経営していたようです。それほどまで焼酎造りが流行った理由は、この一帯が甘藷(かんしょ)芋の産地であったことと、太平洋航路を使った関東方面への輸送が栄えたことにあります」
蔵元六代目の宮﨑 由至(よしゆき)社長は、古い記録を示しながら、宮﨑本店の歴史を紐解いてくれます。なるほど、その資料によると、明治年間の楠町には続々と新しい酒蔵が開業しています。しかし、時代の趨勢とともに幾社もの廃業、倒産が繰り返され、そのほとんどを宮﨑本店が吸収合併して受け継いできたそうです。
ちなみに、宮﨑本店の日本酒は「宮の雪」の銘柄で知られていますが、創業以来の焼酎、味醂は「亀甲宮(キッコーミヤ=キンミヤ)」の愛称で、業務用商品のパイオニア的存在となっているのです。
初代・庄三郎は楠村一本松の地で100坪ほどの規模の酒蔵を始めました。屋号は「浜庄(はましょう)」。この名からも、半農半漁を営んでいたことが窺えます。
庄三郎の酒屋は江戸への船便を足がかりにして、まさに順風満帆で操業し、明治33年(1900)現在の地に社屋を拡大移転しています。当時の記録によれば、宮﨑酒店専用の牛車組合が結成され、毎朝50台もの荷車が焼酎・味醂を満載し、楠港や四日市の港へと向かったとあります。さぞかし壮観な眺めであったことでしょう。
この頃から大正前期にかけての当主が、三代目・由太郎(よしたろう)でした。
彼の時代、楠町では「新式焼酎」と呼ばれる機械取り焼酎が普及し始めます。粕取り焼酎に比べ原料の甘藷芋が低コストで入手できるとあって、成金を狙う新興蔵元が一気に開業し、また旧来の蔵元も乗り換えようとしていました。
しかし、大正7年(1918)に第一次世界大戦が終結すると、国内経済が疲弊し、ますます低価格競争が激化。この影響で、楠町の酒蔵にも激しい浮き沈みが起こり、大店の酒蔵も水泡のように消えていきました。
そんな中で宮﨑酒店が生き残ったのは、先祖代々の厚い信仰心と由太郎の商人哲学があったからこそと、宮﨑社長は解説します。
「今もそうですが、楠町は熱心な浄土真宗門徒の土地で、毎朝墓地には整然と香華が供えられています。私の家も代々、そうしてきました。まずは、神仏と先祖に感謝することが商いの基本です。そして、お客様を幸せにする酒屋であること。そこから信用が芽ばえます。三代目は私が生まれる前に亡くなっていますが、その妻である曽祖母から聞いたところでは、鈴鹿峠を越えて滋賀県の日野村(現在の滋賀県蒲生郡日野町)まで味醂や焼酎の樽を運んだそうです。
楠町から日野町までは直線距離にすれば、およそ40km。しかし、泣く子も黙る鈴鹿峠の難所を越え、険しい山道で馬車を牽くとなれば、その何倍もの労苦があったことでしょう。
-亀甲宮を待つ得意先のためには、いかなる万難をも排する-明治の男、由太郎を思い描かせる話です。
また、宮﨑本店の信頼と蔵元魂を実感する、こんな実話も残っています。
大正12年(1923)9月1日に発生した大地震「関東大震災」は死者・行方不明14万2千8百名、全壊建物12万8千棟、全焼建物44万7千棟という未曾有の災害をもたらしました。しかし、当時はTV・ラジオも無く、震災の情報が遅々として伝わりません。
由太郎は、即座に自家用帆船の「宮嶋丸」に食料や物資を満載し、東京へと出航しました。同業者が取引先の代金回収、債権の約定をキッチリ取り付けようと東京へ乗り込む中、由太郎はビタ一文の請求もしなかったのです。
予想だにしなかった救援に得意先・取引先は「地獄に仏とはこのこと」とばかり欣喜雀躍、感涙にむせんだのです。その結果、多くの取引先が宮嶋丸来訪への謝礼も含め、太鼓判を押して債務を確約したそうです。
この美談は今も酒類流通業界で語り草になっていますが、そんな宮﨑本店のDNAは、平成7年(1995)に起こった阪神大震災でも甦りました。
宮﨑社長が命じるでもなく、社員たちは酒の仕込み水をタンクローリーに満たし、被災地へ駆けつけたのです。
昭和時代に入ると市場は大手企業に独占され始め、各地の焼酎蔵元は疲弊を極めていきます。宮﨑酒店も小さな蔵元と合併しながら、苦境をしのぎました。
当主の四代目・由太郎は倹約家でしたが、「ここが正念場」と大きな賭けに出ます。
昭和5年(1930)、宮﨑酒店は年商に匹敵する値段の甲類焼酎用連続式蒸留機を購入。人気薄の甲類焼酎でしたが、由太郎は低コスト・大量生産を掲げ、方針を切り替えます。
周囲の同業者からは「宮﨑は気が触れた!」「大うつけ者!」と散々な批難を浴びました。
しかし、四代目・由太郎の洞察力は、それまで主流であった乙類焼酎の斜陽を見抜いていたのです。「すでに、大手企業は連続式蒸留機を導入している。富国強兵の国勢下では、材料統制や品質規制がいつ発せられるやも知れない。そうなってからでは、経費削減を図ろうにも手遅れ。ならば今こそ、決断を下す時だ!」と、周囲の反対を押し切って、大改革に挑戦しました。
7年後、彼の予見どおり、いよいよ戦時統制は本格化し、数多の蔵元が没落していったのです。
「四代目もまた、厳格な明治生まれの商人でしたね。私が幼い頃、甘藷芋の山の上で遊んでいたら『この、どあほう!バチが当たるぞ』と大目玉を食らわされました。
耳にタコができるほど聞かされたのは『酒屋をするなら、蔵は一流を建てろ、家は三流で過ごせ』でした。四日市一帯は空襲で焼け野原になったのですが、豪奢な屋敷を再建し蔵を粗末にしている酒屋を見て、祖父は私にそう諭したのです。そんな蔵元は、祖父の言葉通り、次々に消えていきました」
懐かしげに思い出を語る宮﨑社長のまなざしは、四代目とよく似ています。
さて、戦時統制下から昭和30年頃まで、酒造業者は原料不足のため青息吐息でしたが、宮﨑酒店では腐心を重ね、起死回生の大ヒット商品を売り出しています。それが薬味酒「サンパーム」でした。
米、芋、麦とも底を突いていたこの時期、宮﨑酒店は奄美大島産の“ソテツの実”を使う蒸留酒を開発したのです。
ソテツは強いアセトアルデヒドを含んでいますが、天日に干すことで、この成分が消え失せます。しかも、統制品外の材料でしたから、ふんだんに使用することができました。
この新たなチャレンジに登壇したのが、大正5年(1916)生まれの五代目・礼五(れいご)。広島大学醸造学科から大阪大学大学院に進んだ学究肌の英才です。
礼五(れいご)は現社長・宮﨑由至氏の父親ですが、実は四代目・由太郎の末弟でした。つまり、四代目に実子が無かったため、歳の離れた弟を養子に迎えたのです。
この礼五の知識と技量を軸に、宮﨑酒店はいよいよ清酒醸造へと着手。昭和26年(1951)には株式会社宮﨑本店へ改組し、銘酒「宮の雪」が誕生しました。
清酒ブーム期には大手メーカーから「桶買い」の依頼が殺到しましたが、礼五はきっぱりと断ります。敢えて時流には乗らず、頑なに“宮﨑本店の酒造り”を選んだのです。
そして、礼五は研究者としての才能を遺憾なく発揮します。
日々、酵母の純粋培養を手がけた礼五は、昭和40年(1965)「宮﨑式酵母培養装置」を独自に発明。特許を取得し製造販売したところ、灘・伏見の大手メーカーから受注が殺到しました。
これらの努力があって「宮の雪」はじわじわと頭角を現し、平成の地酒ブーム期には「三重県に、宮﨑本店あり」と多くのファンを作ったのです。
現在、宮﨑本店は日本酒7千石のほか焼酎、味醂などあらゆる酒類を含め、4万石の製造量。ウィスキーやリキュールなど豊富な商品ラインナップに、思わず目を奪われます。
「当社の歴史を鑑みれば、江戸時代以降、廻船を使った商いで関東を中心にシェアーを高めてきました。最盛期は、首都圏9:地元1の比率になっていました。これは、名だたる酒どころ、米どころではないために、日常品の焼酎・味醂から始めた結果ですが、常に当社は逆境にめげず、大衆の酒文化を革新し、リードしてきたと自負しています」
そう締め括る六代目・宮﨑 由至 社長は、就任以来“地元に密着する酒造り”も推進してきました。
平成4年(1992)には東京支店新川ビルが完成し、関東シェアーは揺るぎないものになっていますが、この宮﨑本店ブランドを地元の中京・関西地区へフィードバックし、6:4に変化させています。その理由は、蔵主インタビューでじっくり聞かせてもらうことにしましょう。
宮の雪の『宮』は宮﨑家と伊勢神宮を意味し、雪は『純粋』であることと『酒米』を表しているそうです。
春は鈴鹿川を流れるせせらぎ、夏はきらめく伊勢湾、秋は紅葉に彩られる鈴鹿連峰、冬は楠町に舞う雪……四季折々の北伊勢の風情とともにある宮﨑本店。
新たな季節を前に、革新の酒造りが今年も始まろうとしています。