景気回復が鈍ったままの年明けに、山手線沿線の繁華街では大っぴらな新年会よりもささやかな飲み会が主流だとスポーツ新聞が報じていた。その紙面に、カウンター席へ座った男が顔をしかめている。
歳の頃は六十歳前後、伸びた無精ヒゲの半分は白くなっていて、洗いざらしのジーンズとダウンジャケットは古めかしいデザインだった。男が太郎に注文した酒も人気の無濾過生原酒ではなく、昭和末期に地酒ブームを作った越後の本醸造だった。それを飲む客は、今では中之島哲男だけである。
増税の先送りを切り口にした値引きキャンペーンをやれば酒飲みの財布のひもはゆるむと言うマーケッターのコラムに、赤ら顔の男は毒づいた。
「あほんだらぁ。何でもかんでも、安かったらええちゅうもんやないわい。ほんまもんの酒がええ値段するのは、原料も造りも手間暇がかかるからやないかい!」
男の左拳が、カウンターを叩いた。右手で飲み干した酒は三杯目で、鼻息の荒さは酔いが回ったせいもある。
確かに、ポンバル太郎の客単価はチェーン店のように安くない。それでも、本当に美味しい日本酒を飲みたくてここへ来る客たちは、当然の値段と口にする。総杉張りの店内、蔵元風のオブジェやしつらいに、酒の神様が宿っている店だと絶賛するツウもいた。
太郎は男の言い分に内心頷きながらも、テーブル席の客がドギマギするようすに顔をしかめた。
新年早々、客をとがめねばならないかと包丁を置いた時、玄関の扉が鳴った。
「太郎はん、商売繁盛で笹もって来い! でっせぇ。うちは福娘やで」
高野あすかがアクセントのずれた大阪弁を口にした途端、男は酒にむせた。
あすかの後ろには中之島哲男がいて、羽織の右手は銭袋や扇、大判と小判、米俵、鯛の飾り物を吊るした笹の枝を持っている。テーブル席の客たちが、それをポカンとした顔で見つめた。
「太郎ちゃん、約束しとったえべっさんの福笹や。景気ようなるには、やっぱりこれやで」
それは大阪の今宮戎神社でこしらえた笹飾りで、浪花の新年に欠かせない商売繁盛の縁起物である。中之島は昨年に剣が大阪へ旅した際、買って来るように頼まれていた。
「へぇ、コテコテの笹飾りなんですね。東京だと、酉の市の熊手だな。だけど、こりゃ見てるだけで楽しくなりますね」
「そうやで。えべっさんみたいに、笑顔になるやろ。笑う門には、福来たるっちゅうがな」
目尻をほころばせる中之島は、笹の真ん中で揺れる恵比須のお面に似ていた。
カウンター越しに太郎が笹を受け取ろうとすると、酔った男が舌打ちをした。
「ふんっ! 笹なんぞ、パンダの餌やないかい! そんなもん、何も役に立てへんわい」
飾り物をさす男の指先が、ゆらゆらして定まっていない。今度ばかりは見過ごせないと太郎が口を開きかけた時、中之島は表情を一変させた。
「お前……えべっさんの参道で居酒屋をやってた、浪花屋の松本やないか。まさか、ここで逢うとはな」
中之島が真顔になって、男を見つめた。目を凝らした松本が「うわっ! 哲男はん!」と酔いが吹っ飛んだように驚くと、ジーンズのポケットから何かがこぼれ落ちた。
あすかの足元へ転がったのは、薄汚れた招き猫の飾り物だった。
「あら、可愛い……えっ? ひょっとして、これも笹に吊るす飾りなの」
拾い上げた招き猫の裏側には、今宮戎謹製の文字があった。
それを一瞥してため息を吐いた中之島は、うつむく松本に向かって問わず語った。
「この人は大阪屈指の酒匠で、わしの知り合いやった。けど、三十年前に忽然と消えてしもた。その新潟の地酒を発掘して関西に広めたんは、わしと松本や。仲間内では酒の味をきかれへん舌になったと噂されたが……お前まだ、えべっさんを恨んでんのか。その招き猫、娘のかおりちゃんが福娘に落ちた時のやろ。けど、それを持ってるのは、今日がえべっさんの本宮っちゅうのを忘れてないからや」
ちなみに福娘は、今宮戎の福を授ける巫女のような役で、毎年審査で独身の一般女性人から50人ほどが選ばれる。その役を担った家には幸運と繁栄がもたらされる言い伝えがあるのだと、中之島は言い添えた。
唇を噛んだままの松本に、店内が沈黙していた。テーブルの客たちが盃の音を殺す中、また玄関の鳴子が響いた。
「おっ! いたいた! あんた、迷わずにここへ来れたんだな……うん? なんでぇ、この妙なムードは?」
松本に笑いかけた火野銀平の表情が、おもむろに険しくなった。
あすかが事のなりゆきを銀平に耳打ちすると、銀平は小一時間前の駅前で、見知らぬ松本からポンバル太郎への道筋を訪ねられたと答えた。
それを聞いた中之島は、松本の隣にゆっくりと腰を下ろした。
「お前の酒匠の勘が、この店を探り当てたんやろな……松本、いつまでもしょうもない意地張らんと、もう大阪へ戻って来たらどうやねん」
松本は地酒のレッテルを見つめたまま、無表情で答えた。
「あの時、かおりが福娘の審査に落ちてなかったら、浪花屋は繁盛してたはずや。わいを目の敵にしてた飲み屋の亭主らが、かおりが福娘に落ちたっちゅうのをネタにして、ゲンの悪い店やと言いふらしよった。そんな眉唾な話しを、まだ信じる時代やった。おかげで一年後には倒産や。嫁はんはかおりを連れて、実家へ帰った……わいは、毎日参ってたえべっさんに裏切られた気がして、心底憎かったわ。けど、やっぱり酒匠の道から外れることは、できへんかった」
今は中野の場末の居酒屋で、酒を利く技量を買われて、細々と板前をやっていると語った。
「わし、あんたが嫁はんと別れたちゅうのは、だいぶ後になって知った。何でやねんって訊こうとしたら、もうあんたは行方知れずになってた」
中之島は空になった松本の冷酒グラスを手にすると、越後の酒をいっぱいに注いだ。それを見た太郎が、無言で厨房へ入った。
いつになく一気飲みする中之島に、銀平とあすかが目を丸くした。胸のつかえを飲みくだすような勢いに、松本が苦笑いして答えた。
「まるで、あの頃の哲男はんや……風の噂で聞いたポンバル太郎が気になったんは、あんたのせいやろな……こないに切っても切れへん糸があるのに、えべっさんみたいに、あっさり切られる糸もあるわけや」
松本は立ち上がると厨房へ向かって「兄ちゃん、お愛想や」と言い放ったが、何かを作っている太郎は返事をしない。
二人の会話へ聞き入っていた銀平が、もどかしげな顔の松本に言った。
「あのよう。あんた、恵比須様を恨むなんて、バチ当たりもいいとこじゃねえの。ちょいと聞きかじっただけで悪いが、松本さんは依怙地になり過ぎてるぜ。もっと素直になれねえかな」
それを無視する松本の横で、中之島は目を閉じたままだった。
太郎の包丁の音が聞こえる中、あすかが口を開いた。
「娘さんは福娘に落ちたことで、ずっと苦しんでいるんじゃないかな……私、松本さんは大阪に帰って、娘さんに逢ってみるべきだと思います」
「もう、ほっといてくれや。おい兄ちゃん、早う、お愛想をせんかい!」
しびれを切らす松本のダウンジャケットの袖を、中之島が引っ張った。テーブル席の客たちは固唾を飲んだ。
「相変わらず、人の話に耳を貸さん奴やなぁ。えべっさんは耳が聞こえにくい神様やから、そんなお前にバチを当てたんちゃうか……けどなぁ、今年の福娘には別嬪さんがおったでぇ」
中之島は羽織の袂から携帯電話を取り出し、開いた画面を松本へ見せた。映っているのは、福娘の襷をかけたうりざね顔の美しい女性だった。
松本の口元が、震えていた。
「かおりちゃんに、よう似てるやろ……娘はんの京子ちゃん。つまり、お前の孫や。あれからかおりちゃんは、ずっとわしに手紙をくれてな。いつか京子ちゃんを、福娘にしたかったんや」
松本が崩れるように椅子に座り込むと、太郎が静かに肴の皿を置いた。真鯛の昆布じめだった。
「中之島さんはこの越後の酒を飲む時、必ず、真鯛の昆布じめを食べるんです。わけを訊いても『大阪の今宮戎に願掛けしてるねん。えべっさんは、鯛が好きやからな』って答えるだけでしたけど、その理由がようやく分かりましたよ」
太郎の声に、松本が長いため息を吐いた。その目尻に、悲しみとも喜びともつかない皺が刻まれていた。
「いっこも変わってないのは、あんたも同じやないか。このお人好しが……」
松本は、中之島が飲み干した冷酒グラスに越後の酒を満たした。
中之島が割り箸を松本に渡しながら、答えた。
「ああ……わしもえべっさんみたいに、耳が遠なってきよったからなぁ」
二人を見つめるテーブル席の客たちが黙って盃を合わせ、嬉しげに頷き合った。
あすかの瞳からこぼれたしずくが、手にする招き猫を濡らした。
銀平はそれを取ると、手拭いでふいて笹飾りに吊るした。
ほほ笑む恵比須のお面が、招き猫にそっと寄り添って見えた。
「商売繁盛で、笹持って来い……」
つぶやくあすかの瞳に、一つの酒と肴を分け合う中之島と松本の背中が揺れていた。