Vol.75 岩牡蠣

ポンバル太郎 第七五話

 「夏越し酒」や「ひやおろし入荷」のメニューに、ここ数日、ポンバル太郎は日本酒つうの客たちで埋まっていた。酒屋が納める一升瓶も、普段の倍に近い数だった。

 今夜もおそらく、定年退職後のシルバー世代や新興勢力の日本酒女子会なるグループがテーブル席にひしめくだろうと、菱田祥一はウンザリした面持ちで通りを歩いていた。静かに独酌を嗜みたい菱田には、上っ面だけの薀蓄を並べ立てる客が鼻持ちならなかった。

 案の定、ざわついている玄関に肩をおとした菱田だったが、一瞬、我が目を疑った。店前で並んでいるのは、ジョージが引き連れた外国人女性のグループだった。

 白人から黒人、アジア系の相貌がエキゾティックで、口々に期待と興奮をわめいている。かつてのニューヨーク生活が菱田の脳裡に甦り、無意識にジョージへ英語まじりの声をかけていた。今しがたまでの曇り顔は、どこへやらである。
「ワッツ、ハプン? 今夜はやけに賑やかだな、ジョージ」
「おう、菱田さん。私の本社の仲間たちが、ニューヨークから観光にやって来ました。それで、今夜は太郎さんにオイスターと日本酒のパーティをお願いしました」
「なるほど、牡蠣好きな女性たちか。じゃあ皆さん、グランド・セントラル・ターミナルのオイスター・バーに入り浸ってる口かな」

 菱田の日本語を理解したのか、ブルーの瞳をほころばせる女性が「イエス!」と親指を立てた。隣の黒人女性は、店内のようすをまじまじと見入っている。

 席の用意ができたらしく、案内する剣に女性客たちがいっせいに声を上げた。臥煙Tシャツの絵柄だけでなく、小学生の剣がスタッフであることに目を丸くして「ワァオ、アメイジング!」と繰り返した。
「へぇ、ニューヨーカーが体験する、牡蠣と日本酒なの。それって、おもしろそう。じゃあ、私もご一緒してルポしようかなぁ」

 肩越しに聞こえた声にジョージと菱田が振り返ると、高野あすかが額を汗で光らせていた。ジョージが挨拶を交わす前に、あすかは抜け目なく周囲のメンバーへ笑顔を振りまいた。色白で純日本的なあすかに、女性客たちは声を上げて見惚れた。
グループが店内になだれ込むと、予約された大きなテーブル席の真ん中に大ぶりの牡蠣が殻を剥いたまま山盛りされていた。脇には、英語で「新潟県産 岩牡蠣」と表示があり、味わいや産地の環境を綴っていた。さらには天日塩と緑色のすだち、醤油と生ワサビが用意され、網を乗せた七輪には備長炭もいこっていた。
生食と焼き牡蠣の大盤振る舞いに、女性たちはどよめき、ため息を洩らした。
「ジョージ。日本酒は、どれでも好きな酒を試していいよ。今夜は、俺も勉強になるぜ。ニューヨーカーの嗜好が楽しみだ」
新潟県の岩牡蠣だから、まずは新潟の日本酒と、剣がジョージに勧めた。そのいなせな姿に「キュートボーイ!」と目を細めた金髪の女性客が、テーブルのグラスを手にした。

 女性は一升瓶から注がれる純米吟醸にウットリしたが、塩とすだちを振った生牡蠣を口に滑らせてグラスをなめた途端、顔をしかめた。無理やり呑み込んだのか、しばらく咳き込んだ女性にジョージが日本語で囁いた。
「クレア、大丈夫かい? 君は日本酒が初めてなんだから、ゆっくり飲んだ方がいいね」

 ハンカチで鼻先をおさえながら、クレアが苦しげに答えた。剣はどぎまぎして、一升瓶を抱いたままである。
「そうじゃないの。牡蠣がちがうのよ、ニューヨークと……生臭いというか……みんなも、そう思わない?」

 クレアの流暢な日本語にあすかは意表を突かれたが、頷く他のメンバーにもあすかは驚いた。
菱田が動揺を見せることなく、不審げな面持ちの太郎に向かって言った。
「いつも彼女たちは、ワシントン州のトッテン湾で獲れる天然物の牡蠣を食べてるはずだ。俺も食ってたけど、“オイスターベイ”って種類はさっぱりした旨味とクリーミーさのバランスが絶妙だった。もう一つの人気品は“ブルーポイント”って牡蠣で、しっかしりたミネラル感と濃厚な味わいだった。同じ湾でも、揚がる場所で味が全く異なってた。海流と山から流れ込む天然水のちがいだろう。新潟の岩牡蠣とは、ちがうのかもね」

 メンバーのようすや菱田の言葉をメモしていたあすかが、頭をもたげた。
「それに……オニオンたっぷりの甘めのオリジナル・ソースにレモンをしぼって食べるよね。牡蠣の生臭みを消すために。だから、お酒も甘くてキツいドライマティーニ。牡蠣らしい磯の香りや苦みを味わう塩とすだちの仕立てとは、まるでちがうわ」
「なるほど。ワインもシャブリとかの辛口を合わせるって話だろ。それでも、白ワインの酸味が魚介類の磯臭さを引きずっちまうのは、しかたねえことだ。だから、ポワレとか火の入った……そうか!」

 太郎が気づいた時、すでに剣は炙った岩牡蠣をメンバーに配って、純米吟醸をグラスに注いでいた。テーブルに、ようやく笑顔と歓声が起こった。
「魚もそうだけど、焼いたり煮たりすれば旨味が強く出るじゃない。牡蠣だって、焼いた旨味で臭みは少なくできるはずだよ」

 先入観のない剣だからできた、単純明快な答えだった。

 その時、香ばしい匂いに誘われるかのように、玄関の鳴子が音を立てた。抱えられたトロ箱の上に、剃った銀平の頭が見え隠れしている。
「おう! 追加の岩牡蠣を持って来たぜぇ。あれぇ? 焼き牡蠣ばっかじゃねえか、何で生を食わねえんだよ、せっかく新潟の笹川流れの一級品を、手に入れたてぇのによ!」

 突然現れたスキンヘッドの銀平がまくし立てると、女性客たちは独特の江戸言葉に目をしばたたいた。
ジョージが銀平に状況を説明すると、黙考した銀平は冷蔵ケースの日本酒を物色した。
「こいつなら、どうでぇ。たぶん、いけるんじゃねえか」

 銀平が手にした一升瓶に“日本酒度20度、超辛口純米酒”の肩ラベルがあった。
「スーパードライ! スーパードライ!」と繰り返して女性客に勧める銀平に菱田とあすかは飽きれ顔だったが、意外なことにクレアの表情は一変した。
「この日本酒なら、塩とすだちでも大丈夫! ドライマティーニに似て、牡蠣のクリーミーな味が引き立っています。日本のオイスターには、やはり日本酒……あなたのセレクトは素晴らしいね!」

 碧い瞳を輝かせるクレアが手を握ると、銀平が真っ赤に火照った。
調子にのった銀平が笹川流れの岩牡蠣を片言の英語で説明すると、クレアは興味津々の面持ちで銀平に寄り添った。
度胸があるのか、馬鹿なのか、予想だにしない銀平の展開にあすかと菱田があんぐりとして顔を見合わせた。
女性客たちが食べ尽くす岩牡蠣の殻がうずたかく積まれる中、剣が銀平たちを見つめながら太郎に訊いた。
「父ちゃん……アメリカの女性って、牡蠣だけじゃなくて、タコも好きなの?」
 太郎も不思議そうな顔で、つぶやいた。
「銀平をねぇ……ひょっとしてクレアさんは、イタリア系かもな」
 プリップリの岩牡蠣とつややかな日本酒に、ニューヨーカーたちが笑顔を染めていた。