Vol.7 赤と黒

ポンバル太郎 第七話

 ほのかな青紫を浮かべる菖蒲が、ポンバル太郎のカウンターで寄り添い合っている。
その花びらの色とかけ離れた真紅のブラウスを着た女が、
「いずれ菖蒲か杜若……熊本の水前寺公園でも、今が満開やけん」

 と独りごちて、太郎から赤い酒の入ったグラスを受け取った。店内にいるのは彼女と太郎だけで、方言まじりの声がはっきり聞き取れる。

 ボリュームのある盛り上がった髪は一見して水商売と判り、目尻の小皺や鼻まわりのほうれい線の深さは、50歳前後のママとおぼしき容貌である。それでも酔って耳たぶを赤くした横顔には、夜の蝶として艶っぽい色香を振りまいていたホステスの頃が見え隠れしていた。
女が、太郎も手にしている赤い色のグラスと小さく乾杯をした時、杉の扉が開いて銀平が現れた。
「おっ! おおっ! 女性とワインで乾杯なんて、太郎さん、いけねぇなぁ」

 尻尾をつかんだとばかりほくそ笑む銀平に太郎がため息を吐くと、女が笑いを堪えながら振り向いた。
「バ~カ! 相変わらずトンチキな奴たい、あんたは」
「あっ、えっ、マリさんかよ!? 髪と服装が、いつもと違うじゃねえか。俺はまた、太郎さんにイイ人ができたのかと……にしても、日本酒バルでワインなんて掟破りじゃねえの」

 マリと呼ばれた女は銀座の外れで“BAR手鞠”を営む手越マリで、ひと月ぶりの来店だった。彼女が緑色の宝石を嵌め込んだ指輪で胴を叩く四合瓶には、古めかしいヒゲ文字で“赤肥後(あかひご)”のレッテルが貼られていた。
「あいにくだけど、これは、れっきとした日本酒。熊本名物の“赤酒(あかざけ)”たい。お昼に熊本で甥っ子の披露宴があって、その引き出物よ。昼酒の勢いで、羽田空港からポンバル太郎へ直行したってわけ」

 グラスの肌に浮いた水滴を、マリの指先が愛おしむように撫でた。それを覗き込むようにして、銀平が胡散くさげな面持ちで訊いた。
「……知らねえなぁ。それって味醂みたいだけど、甘いの?」
「お前にしちゃ、いい質問だな。赤酒は、別名“灰持ち酒”とも言うんだ」

 赤肥後の香りと味わいを?いて、余韻にひたっていた太郎が口を開いた。
灰持ち酒とは、酒のもろみの中に木灰を入れて保存性を高める古くから残っている方法である。
普通の清酒が使う“火入れ”殺菌とちがって、木灰が酒の酸を弱アルカリ性に変えて滅菌する。しかも灰は製造工程の途中に消えるので、酒の中には残らない。
そして糖分の褐色変化が早く、だから赤酒って呼ばれるのだと説きながら、銀平に一杯注いでやった。
「赤酒には、肥後のお侍さんの熱い血がこもっとる……昔の熊本は、貧しか国でねぇ」

 マリがグラスを飲み干してつぶやくと
「ふっ……マリさんの熊本自慢が、また始まった。はいよ、いつものツマミね」

 と太郎が熊本産の馬肉の燻製“さいぼし”を差し出した。

 裂いたさいぼしを野暮ったく口端に咥えたマリはエレガントな装いを台無しにしたが、
うれしげな目元が彼女の中に残る純朴さを感じさせた。

 マリの講釈によると、かつて財政に苦しんだ熊本潘は、江戸で一世風靡していた灘の清酒に目をつけた。そして熊本でも灘の酒造りを真似て、上等な酒を売り、その税で財源を潤そうと考えた。
しかし庶民には高嶺の花で、酒が残り始めた。そこで売り切るために思案投げ首した藩士たちは起死回生の名案を考え出した。それが、長持ちのする灰持ち酒だった。
「今じゃ、正月のお屠蘇や祝い事の酒にしか飲まれなくなったけど、昔は毎日、赤酒ばかり飲んでたの」
「それで引き出物なのかぁ、なるほどね。おっし! これは、あすかの奴に勝てるネタになるぜ」

 銀平が嬉々として赤酒のグラスを手にした途端、扉の鳴子が音を立てて、まさに高野あすかが入って来た。黒いニットのセーターが、体の凹凸をくっきりとふちどっている。
「太郎さん! 今夜は、おもしろいお酒を持って来ちゃいました!」
「おっ、おお~、あすかじゃねえか。ちょうど、いいや」

 一瞬、銀平はあすかのスタイルの良さにうろたえながらも、ここぞとばかりに声を高くした。
「あっ、それって赤肥後じゃないですか。熊本伝統の甘い灰持ち酒ですね」

 あんぐりとする銀平を無視するかのように、あすかはしゃべりながらマリの傍へ歩み寄った。
「誰、この娘? あんた、私とはお初だね。あらっ、それは“江戸黒(えどぐろ)”じゃなかと?」
「うわ~、ご存知なんですか。お客さん、ツウですねえ。これ、江戸時代に飲まれていた甘いお酒の復刻版なんです」

 あすかの手に提げる袋から覗いていた四合瓶のレッテルには、これまた豪快な筆字で江戸黒と揮毫されていた。

 マリを気の合う人物と見込んだあすかは、黒褐色の瓶をカウンターに置くやいなや、堰を切ったかのようにしゃべり始めた。

 江戸黒は玄米のような米を仕込みに使っているので、どうしても茶黒い色になるが、味醂のような甘さが特徴である。アルコール度も低いので、原酒を水で割るとさらに飲みやすくなる。昔、庶民が“酒合戦(さけがっせん)”と称して大量の酒を飲み比べできたのは、そこに理由があったらしい。ちなみに、金魚を泳がせても酔っ払わないほどだから、“金魚酒(きんぎょざけ)”とも呼ばれたと語りながら、太郎に冷酒グラスを頼んで江戸黒の栓を開けた。
「ふ~む、赤と黒か。まるで、スタンダールの小説だな」

 二つの対照的な酒と同じような装いの女性が並んだカウンターに、太郎が目を細めて言った。
「あのさ……ス、スタンダールって、何だよ?」

 銀平が話しの輪に入れずいらつくと、店先で若々しい男の声がした。
「赤肥後と江戸黒の飲み比べですか。ノスタルジックな酒席ですね。僕も、ご相伴にあずかってもいいすか?」

 店にいる全員が振り向くと、スーツ姿とは一変したカジュアルな右近龍二が立っていた。

 流行の男物のレギンスが、スリムな体にフィットしている。その脚の長さに銀平がドギマギとして自分のガニ股を見比べた。
「あらぁ、なかなかのイケメンばい」

 マリが熟女的な秋波を送ると気をきかせたあすかが席を譲り、龍二は女性に挟まれながらカウンター席に座った。

 端正な顔立ちを二人に見つめられる龍二に、太郎が赤肥後と江戸黒のグラスを出しながら訊いた。
「右近君。いや、もう龍ちゃんでいいよな。さっそく、この酒たちの含蓄を聴かせてもらえねえか。お二人も、期待してるみたいだぜ」

 龍二は照れ隠しに鼻先を掻きながら、ゆっくりと語った。
「どちらも、米を磨けない時代の酒だから、甘味だけでなく、ミネラルやタンパクなどの雑味もあります。でも、かえってそれが味わいの深さを生み出しています」

 日本に、今のような精米機が誕生したのは大正時代で、当初はアメリカ製の横型精米機を輸入していた。80%ぐらいの精米しかできず、現在のような縦型精米機による30%精米は、日本独自の技術革新の成果である。

 それでも、水車の力を使い、臼で米を搗いて精米していた江戸時代に想いをはせるのも、日本酒ツウの温故知新。この二つの酒は、ロマンを味わう美酒だと龍二はグラスを傾けた。

 二本の瓶に、うっとりと聴き入るマリの表情が映っていた。
「赤と黒……今夜のジュリアン・ソレルは、龍ちゃんだな」

 太郎のつぶやきに、銀平が顔をしかめて、髪のない頭を掻きむしった。
「だからぁ、それって誰なんだよぉ」
「いいの、いいの、知らなくたって。銀平さんはスタンダードな、のんべオヤジだし!」

 あすかのツッコミをきっかけに、なごやかな笑いがポンバル太郎に響いていた。