Vol.58 白魚

ポンバル太郎 第五八話

 隅田川沿いの日暮れの並木道に、やたらと落ちた新芽をついばむ小鳥が跳びはねている。屋形船の手すりから身を乗り出す剣がその景色に瞳を輝かせると、ようやく軒先にぶら下がる提灯に明かりが点った。

 ポンバル太郎が休みの今夜は、火野銀平の肝煎りで、叔母の松子が持っている屋形船「お松丸」に常連客たちが集まっている。太郎も車座に加わって、年季の入った飴色の箱膳を前にしながらぬる燗のお銚子を右近龍二に傾けていた。

 屋形船を初体験のジョージはワンダフルを連発しながら、スマートフォンで江戸時代を髣髴とさせる船のしつらいを撮影している。

 夕景にとけこむ剣の背中を愛しげに見つめる手越マリが
「春ばいねぇ。だけど、私たちは、こげん景色にも気づかん野暮な大人になっとるとぉ」
とつぶやいた。

 マリの隣の平 仁兵衛がそれに頷きながら、膳に置かれた、あさりとふきの煮びたしに目尻をほころばせた。
「川面からの目線だと、ふだん見えないものが見えてきますねぇ。江戸時代の庶民は、舟遊びをしながら、こんなふうに季節の旬を味わっていたわけだ。いつの間にやら、現代人は風物詩ってものに、疎くなりましたねぇ。テレビのニュースやインターネットで教えられなきゃ、分からない。もはや日本人が、日本人じゃなくなっていますなぁ」

 平が嘆かわしげに純米酒の盃を啜ると、車座の真ん中で天麩羅鍋のしたくをする火野銀平が衣を練りながら答えた。それを撮影するジョージの隣で、屋形船の楽しみはなんてったって天麩羅と高野あすかが箸を咥えている。
「だけど平 先生、伝統ってのは革新の連続だって言うじゃねえすか。日本酒も日本料理も、これから外国で広まるし、それに日本は将来、移民をもっと受け入れるんでしょ? だったら、ますます古臭いことは言ってらんねえよ。今から俺が作る穴子の天麩羅も、フォンデュ風に仕立てるんだ。フルーティな大吟醸に合うと思うぜ。ジョージも、アメリカのグルメ雑誌の記事にできるんじゃねえか」

 穴子の身に串を打ち始めた銀平の前には、オリーブオイルの入った瓶が置いてある。それに怪訝な顔をした高野あすかが口を開きかけた時、聞き覚えのある甲高い声が響いた。
「バカっ言ってんじゃないよ! お松丸の天麩羅は、ごま油と白魚から始まるって決まってんだ! そこを、おどき!」

 大きな丸盆を両手で抱えた松子が男勝りな気性をさらけだして銀平を蹴とばすふりをすると、初めて彼女を目にする平と龍二があっけにとられた。
それには慣れっこの剣が、松子の持つ盆を覗き込みながら訊いた。
「白魚って、ハゼの子どもだよね。確か、生きたままで食べるんじゃないの?」

 すると、剣の言葉に生唾を呑み込む手越マリが即答した。
「それは博多名物の“踊り食い”ばい! 熊本でも、同じようにして食べるたい」
「あっ、土佐にもありますよ。ドロメって言うんです。毎年、春先になるとドロメ祭りってのがあって、日本酒が一升入る朱塗りの盃でどれだけ早く飲み切れるかを競います。その頃、食べるんですよ」

 龍二も、白魚は高知の春になくてはならない肴だと、物欲しげに冷酒グラスを飲み干した。

 ところが松子は、白魚を天麩羅の衣に入れようとする銀平の箸を手でピシャリと叩くと、屋形船の天井を見上げて長いため息をついた。
「しかたないか、江戸っ子じゃないんだもんね……あんたたちが言ってんのは“しろうお”だ。この白魚(しらうお)とは、別物だよ」

 剣が指でつまんだ半透明の小さくて細い魚を松子は手のひらに受けて、そのまま口に入れた。そして、満足げな表情で語った。
「江戸前の白魚ってのはね、干しシラスの生きた奴だよ。昔は東京湾でたくさん穫れて、徳川家康も好んで食べたんだ。だから、白魚をよく見ると頭に紋様があって、それが葵の御紋に似ているって言われてたのさ。ただし、足が早くってね。日持ちがしないから、ほとんど干物にした。それと、佃島あたりで白魚を醤油で煮て保存食にしたのが、シラスの佃煮だよ。江戸の船遊びには、春が来ると白魚を掬って生で食べるって座興もあったんだ。あたしが娘の頃だって、まだ隅田川に白魚はのぼって来たさ。活きのいいのが泳いでいたけどねぇ」

 感慨深げな松子を前にするあすかは、抜け目なくメモを取っている。いつもならそれを盗み見しようとするジョージが、松子の話しに聞き惚れていた。きっと屋形船の雰囲気に魅了されているからだろうと、誰もが思った。

 白魚のかき揚げに混ぜる野菜を衣に入れて天麩羅油の頃合いをはかっていた銀平が、もうよかろうとばかりに口を開いた。 
「叔母さんはさぞかし、おっかねえ、いや、活きのいい娘だったろうな。それにしてもよ、白魚って大衆魚じゃねえか。やっぱり穴子とかメゴチの方が、俺は江戸前だと思うんだけどよ」
「やい、銀平! 火野屋は、築地で何年魚屋をやってんだい! その主人がトウシローみたいなこと言ってんじゃないよ。そもそも佃島で白魚漁をさせたのが、築地魚河岸の始まりなんだよ」
「へっ!? そうだったの? こりゃ、まいったぜ」

 テンポの速い二人のやり取りに、車座の面々は笑う暇もなく感心するばかりだった。

 エンジンを止めたお松丸の船胴に、東京湾のさざ波が心地よい音を響かせる中、平がおもむろに口を開いた。
「今のが、江戸っ子の丁々発止ですねぇ。きっと昔は、そんなふうに噂話やこぼれ話を言い合いながら知識を広めたんでしょう。屋形船は、サロンみたいなものだったのですなぁ」
「そうだねぇ……うちの船には、テレビもラジオもないんだ。東京湾に出れば、波の音や風の音しか聴こえない。その中で、ああだこうだと、しゃべくってるうちに、ゆっくり時間が流れてくんだよ」

 障子窓からそよぐぬるんだ潮風が松子のほつれた鬢の白髪をやさしく撫でた時、太郎が嬉しげにつぶやいた。
「きっと、松子さんみたいな女将も、いっぱいいたんだろうね」

 松子は、ようやく白魚の身を天麩羅の衣に入れるよう目で指しながら
「ああ、銀平みたいな、おっちょこちょいもねぇ」
とほほ笑んだ。

 その時、揚げ始めた天麩羅油が跳ねて、銀平の額に飛びついた。
「うあっ、ちちち! この雑魚が、偉そうにしやがって」
「あらちょいと、雑魚が雑魚に何か言ってるよ。あ! 言うのを忘れてたねぇ。生の白魚は水気が多いから、気をつけなきゃ油が跳ねちゃうんだ」
「それを、先に言えってばよ!」

 またもや歯切れのいいやり取りが始まると、太郎たちの笑い声が東京湾の水面で揺れていた。