Vol.45 氷室酒

ポンバル太郎 第四五話

 通りを猛スピードで走り抜けて行く長距離トラックがコンテナの尻を振ると、積もっていた雪が高野あすかの目の前にドサリと落ちた。赤いパンプスに雪をかぶったあすかは「キャッ!」と二、三歩あとずさりしたが、ここ数日続いている東北の豪雪とその影響によって物流が大混乱している状況に、あきらめ顔でポンバル太郎の扉を開けた。
驚いたことに太郎と火野銀平が、カウンターに敷いたビニールシートの上で雪の塊をいじくっていた。
カウンター席の隅では、その雪の色を愛でながら平 仁兵衛がぬる燗のお銚子を傾けている。テーブル席の若い男性客も何事が始まったのかと、冷酒グラスを持つ手を止めたままだった。
「ど、どうしたの? 子どもじゃあるまいし、雪合戦でも始めるつもり?」
「けっ! これは、秋田県の蔵元がかまくらの中で仕込んだ新酒だよ。まったく、珍しい酒が届くと、もれなく、あすかが付いてきやがる。いくら蔵元の娘だって、ちったあ酒の神様もこいつ呼ぶのを遠慮しろいって言いたくなるぜ」

 銀平が口惜しげに雪の山を崩すと、中から数本の赤い四合瓶が現れた。その色合いは、今しがた雪をかぶったあすかのパンプスに似ていた。
「あら、ご挨拶ね! それじゃ私、いじきたないハイエナみたいじゃない……でも、雪に閉じ込めて送るなんて、粋なアイデアね」

 あすかは透明のアクリルケースに詰められていた雪と酒瓶に見惚れながら、レッテルの“花氷室(はなひむろ)”に目を止めた。
「花氷室って、白い雪の中に咲く一輪の可憐な花ってイメージかしら。でも実際、氷室って字のごとく、冷蔵室みたいなものだったんでしょ?」
「さよう。食料から水、酒、調味料まで蓄えた。氷室の歴史は古いのですよ。神話の時代、古事記や日本書紀にも記されていますからねぇ。もっとも天然の雪や氷を集めて作る贅沢な倉庫ですから、帝や貴族とか、やんごとなき人たちしか使えなかったのですよ」

 平は、氷室という地名が全国にたくさん残っているが、そこは豪族や貴人が管理する土地だった。日本書紀によると朝廷のために氷室を担当する“氷連(こおりむらじ)”という役人がいて、その仕事は明治時代まで営々と続いたと語った。

 テーブル席の男たちが、髭をたくわえ紳士然とした平の容貌に尊敬のまなざしを送った。
「ふぇ~! マジかよ。たかが氷のために?」

 銀平が、アクリルケースの雪に埋もれている紙切れを取り出した。「霊峰・鳥海山の雪を詰めています」と書かれたその和紙を、平が目にしながら答えた。
「いやいや、現代人の私たちにすればいつでも氷は手に入りますが、科学が生まれる前は、畏れ多い神羅万象の形ですからね。俗人が触ると、ばちが当たるというような存在でしょうなぁ」
「でも、今も昔も人間の欲って、そんなに変わらないのね。やっぱり、氷室で冷やしたお酒が飲みたかったのかしら」

 あすかが雪を払い落とした花氷室の瓶に物欲しげな顔でつぶやくと、太郎がカウンターの面々に雪を盛った木枡を差し出した。そして花氷室の栓を開けると、枡の氷を解かすようにして、なみなみと注いだ。
「これが、江戸時代半ば頃の徳川将軍の飲み方だよ。徳川幕府は、毎年夏になると加賀の前田藩から将軍へ、石川県の白山の雪や氷を献上させた。ちなみに白山も、山岳信仰のある神の山として崇められている。あすかのお察し通り、加賀の菊酒を天然の白山の氷で冷やして飲んだらしいぜ。だけど、ここからがおもしれえんだ。その噂が江戸中に広がると、俺たちのような庶民も黙っちゃいなかった」

 氷をよこせと瓦版が喧伝し、とうとう幕府は江戸の町のあちこちに土蔵造りの氷室を作った。そこに冬場の氷を保管し、夏になったら水を飲む時に使って良いと御触れが出されると、むろん酒も冷やして飲んだにちがいないと太郎は解説した。

 すると、聞き慣れた声が話しを付け加えた。いつものように、静かに扉を開けて入って来た右近龍二だった。
「その氷の出どころは、奥多摩とか秩父です。東北や北陸から大量に運ぶと、時間もお金もかかりすぎます。まず、解けちゃいますからね。だから、江戸周辺の冷える土地の名主や大庄屋に天然氷を集めるよう頼んだわけですよ。ちなみに、氷で冷やした水を売る“水屋”って商売がはやったのは、この頃からです。ところが氷水を飲みすぎて、腹をこわす年寄りが増えた。それで生まれた諺が『年寄りの冷や水』なんだそうです」

 振り向きながら笑みをこぼすあすかと、顔をしかめる銀平が対照的で、平がそれを冷やかそうとした時、たどたどしい日本語が店内に響いた。
「ワオ! それは雪ですね! 新酒を雪で包むなんて、とってもファンタスティック! でも、さっきの氷室の話しは外国にもありますよ。それはアイスハウスね」

 勢いよく鳴子を鳴らして入って来た雑誌記者のジョージが、平たちのウンチクをメモするあすかの隣に座ると、いきなりペンを取り上げてアメリカのアイスハウスを描き始めた。

花氷室

 すでに一杯引っかけてきたらしく、ジョージの鼻筋は赤く染まっている。
「石作りの家の中に、池や湖から切り出した氷を積むアイスハウスです。野菜だけでなくワインや干し肉、塩漬けの魚も保存したのです」
あすかや龍二が呆気にとられる中、ジョージは思いのほか達筆で、あっという間にドームのようなアイスハウスを描いた。そして、ひと息つくと雪氷室の木枡を一気に飲み干した。
「また一人、酒の匂いをかぎつけて来やがった! やれやれ、次は外国の氷室のウンチクかよ」
「いいじゃないですか。所詮、ヨタ話しもウンチクも、うまい酒のつまみになれば結構! 結構! それも、人は昔から同じことを繰り返してるだけですからねぇ」

 口の挟みようがない銀平がすねると、平が空になった木枡を太郎に返し、おかわりしながら諌めた。よほど今夜は気分がいいのか、すでに三杯目だった。

 平の速いペースを、銀平がここぞとばかりにとがめた。
「平先生、年寄りの冷や水ですぜ!」
「むむ、これは一本取られたな」

 カウンターに広げた白い雪の中に、客たちの笑い声が吸い込まれていった。