Vol.229 SAKEカクテル

ポンバル太郎 第二二九話

 35℃を下らない長過ぎる残暑に、彼岸間近な京都の名刹では仮設のミストを境内にしつらえるなど、熱中症対策に余念がないとニュースで報じている。異常気象は東京もよそ事じゃなく、蒸し風呂のような熱帯夜に都心の繁華街はうだっていた。

 早朝からカチ割り氷でギッシリとトロ箱の魚を囲い、得意先へ配達した火野銀平は、この時間になると足取りが重たい。滝のように流れた汗をペットボトルのドリンクで補っても、欠乏したビタミン成分は間に合わないようである。
 乾いた唇を噛みしめながらポンバル太郎の扉を開けた途端、銀平は目をみはった。カウンター席の平 仁兵衛と右近龍二の間に置かれた黄色い塊に、視線が止まっている。
「うぉ! そいつは、何でぇ? 夏ミカンかよ」

 酸っぱそうに口元をすぼめる銀平が、カウンターに飛びついた。よく見れば、夏ミカンよりもゴツゴツした表皮で、ツヤも劣っている。厨房では、その分厚い皮を剥いた太郎が、黄色い果肉をペティナイフでスライスしている。デザートとして、出しているようである。
 店内に広がる爽やかな酸味が、客たちの鼻先をくすぐった。

 黄色い柑橘をためつすがめつ観察する銀平に、夏休み最後の手伝いをしている剣が横取りして答えた。
「残念でした。これは、龍二さんの故郷から送って来た高知県の夏文旦(なつぶんたん)だよ。普通の文旦は秋から冬が旬だけど、これは夏限定の物。完全な露地栽培で、収穫まで1年半も樹にたわわなまま栽培して、収穫するから、皮は傷がいっぱいあるんだって。でも、熟した実の美味しさと酸味はスゴイよ! 夏バテには最高だってぇから、今夜みたいな時はしぼった果汁を使って、SAKEカクテルってのもいいんじゃない? 」
 大人顔負けの剣の解説に平が純米酒の盃をなめていた舌を巻くと、龍二は拍手しながら「それ、飲みたい!」と視線を太郎へ向けた。テーブル席の若いカップルも
「ミカンのリキュールみたいになるんじゃない? 注文してみようか」
と物欲しげに夏文旦を見つめた。

「おいおい! 勝手にメニューを作られちゃ、困っちまうよ。俺は、バーテンダーとしちゃ素人だからな……まあ、その内、SAKEカクテルがデビューするかもしんねえけど、期待せずに待ってて欲しいね」
 すげない顔で答える太郎だが、その実、棚の奥に揃えているシェイカーやジガーを常連客たちは周知している。しかし、誰一人、太郎がカクテルを作る姿を目にしたことはない。それを知っている人物は、息子の剣だろう。さっきのSAKEカクテルの提案も、よく考えてみれば、そろそろ太郎の技をお披露目したいと思う息子心かと、平は舌打ちする剣に目を細めた。

 そんな忖度を知ってか知らずか、銀平はノドを涸らして太郎へせがんだ。
「太郎さん、うめえかどうかは二の次でいいからよう。とにかく、夏文旦のSAKEカクテルを飲ましてくれよ。俺ぁ、ビタミン不足で、バテバテなんでぇ!」
「ふう~。おめえも、しつこいな。ダメだったら、ダメだ」
 いつになく声音を上げる太郎に客席がざわついた時、玄関の鳴子が響いて、ジョージが客を連れてやって来た。一見してポリネシアン系と分かる褐色の肌に、大きな目鼻立ちが印象的だった。ラガーマンのように大柄で、ズングリむっくりした体格だった。

「太郎さん。友人のジミー・オコナ君です。ハワイから、日本の機械メーカに出向しています。寿司や刺身などの和食は大丈夫なのですが、彼は日本酒が苦手なので、ビールだけでお願いします。それに毎日の和食に飽きて、ちょっと、食のホームシックにもなってます」
 ジョージの紹介で店内の注目を集めるオコナは、広い肩幅をすぼめるようにして 「ごめんなさい、すみません」とたどたどしい発音で両手を合わせた。
「なんでぇ、郷に入れば、郷に従えってんだよ。ここは、日本酒の店だぜ」
 オコナを腐す銀平を太郎は目で叱りながら、「OK! ノープロブレム」と頷いた。すると、唐突に剣が声を上げた。
「ジョージさん! オコナさんって、ハワイのフルーツは大好きだよね?」

 藪から棒な質問にジョージはオコナと顔を見合わせ、不思議そうに答えた。
「それは、当たり前ですね。でも、ホワイ? フルーツが、どうかしましたか?」
「ハワイって、オレンジとかグレープフルーツとか、柑橘類の宝庫でしょ? 今夜は、オコナさんでも飲める日本酒のカクテルができるんだよ。ねえ、父ちゃん!」
 文旦を指先で回す剣がここぞとばかりに太郎へ話を振ると、再び、客たちの表情は色めき立った。平と龍二は、してやったりとばかりに盃を合わせた。

「ば、馬鹿野郎、だから、まだ無理だって言ってんだろう」
「大丈夫さ! それに、オコナさんがホームシックにかかってるんだから、作ってあげるべきじゃないか。ねぇ、お客さんたちもそう思いませんか?」
 客席を巻き込もうとする剣に、大きな拍手が沸いた。拒む太郎に、テーブル席のカップルは、もう観念したらとほくそ笑んでいた。

 なりゆきをジョージから通訳されたオコナは、ぎこちないしぐさでカウンターに額づいた。
「お願いします。私、飲みたいです」
 渋い顔だった太郎が長いため息を吐いて、夏文旦を手に取った。
「そうまで言われちゃ、仕方ねえや。この際だから試作品ってことで、お客さん全員にサービスしますよ。ただし、味は保証しねえ。ちょいとシェイカーの音がうるせえけど、辛抱してくださいよ」

 アイスピックで氷を割った太郎は、シェイカーに入った夏文旦ジュースと土佐の純米酒に蜂蜜を加えて小気味よい音を響かせた。予想に反する太郎の堂に入った構えと手際の良さに、平と龍二は脱帽し、客たちはポカンと口を開けていた。いつの頃から隠して研究を重ねていたのだろうと、平と龍二は頷き合った。
 したり顔の剣が、唸り声を洩らす銀平に囁いた。
「まっ、驚くのは飲んでからにしてよ。ただし、僕は未成年だから、まだ父ちゃんのSAKEカクテルは口にしてないし、感想を教えてね」
「嘘をつくんじゃねぇ、この野郎。ちったぁ、なめただろうよ」
と銀平が茶化すと、剣はペロリと舌を出した。

 夏文旦のSAKEカクテルは小さな冷酒グラスにふた口ほどの量が注がれ、剣が順次、客席へ配った。カクテルの真ん中には緑色のアクセントが浮かび、ペパーミントの香りを漂わせた。
 グラスの酒を啜る音がして、束の間、客席は静まっていた。
「へぇ!」や「なるほどね」とつぶやく声の中、オコナが口を開いた。
「この夏文旦のお酒、とっても美味しい! ハワイのグレープフルーツのカクテルを思い出しました。ありがとうございます!」
 浅黒い目尻をほころばせるオコナに、ジョージがほっと胸を撫で下ろした時、玄関から温い夜風と高野あすかの声がすべり込んだ。

「えっ! どうして、太郎さんがシェイカーを振ってるのよ!? それって、新しいメニューなの? 私、教えてもらってないよ!」
 酒と食のジャーナリストのあすかにすれば、SAKEカクテルは得意ジャンル。常日頃、太郎がその気になれば、いの一番に教えたいレシピがあると持ちかけていた。それだけに、無視された気がしたのだ。
「そうじゃねえよ。今夜はなりゆき上、たまたまだ。所詮、俺なんぞ、バーテンダーとしては門外漢。真似したところで、こんな物だよ」

 謙遜する太郎に、ジョージが首を横に振った。
「いいえ。これからは、若い日本人をターゲットにするSAKEカクテルが必須です。例えば、剣君の世代は、イタリアンやフレンチのように味わいが濃厚な料理と日本酒をオシャレに合わせるはず。低アルコールのカクテルだって、女性に流行ると思います」
 ジョージが説いた若い連中の食味の変化など、太郎とて言わずもがなである。それでもポンバル太郎が頑なに本来の日本酒スタイルを旨としているのはハル子の頼みだったと答えて、剣を見つめた。

「亡くなる前の病床で、ハル子は言った。『剣が20歳になる頃、日本酒を使ったカクテルやリキュールは新世代を狙う市場が本気で求めるわ。だから、あなたの時代はまだ魁だから、やんなくてもいいの。王道の清酒だけを追求してれば、初代のポンバル太郎は大丈夫』とね。まったく、しょってる奴でしょ」
 頷く平と龍二の前で神棚のハル子の遺影を見上げた太郎は、自分にSAKEカクテルをやらせようと策を練った息子の成長へ、親馬鹿な笑みを隠さなかった。
 単に無碍にされたと思い込んでいたあすかは、ハル子の写真を見ることができなかった。恥ずかしさや負けた気持ちではなく、ハル子の先見の明に脱帽したからだった。

 2020年の東京オリンピックをきっかけにSAKEカクテルは世界的に評価されるとあすかは確信しているが、その開催さえ知らないでハル子は察したのだ。そして今、ハル子の読み通り、剣は少しずつ予言に近づいている。
「叶わないなぁ……やっぱり、一枚も二枚も上手ですね」
 あすかはしょげるように洩らしたが、太郎は何も答えずにシェイカーを振った。

 カキコキと小気味よい音を止めるかのように、銀平が言った。
「ならよう、あすかが剣にSAKEカクテルの指導を始めちゃ、どうなんだよ。トウシロウの太郎さんが片手間で教えたって、物にならねえ……俺がハルちゃんなら、そうするぜ」
 敢えて太郎へあすかをくっつける策を提案した銀平に、龍二だけでなくジョージも、驚き顔の剣と目を合わせた。
 誰よりも、あすか本人が「えっ!?」と叫んだまま、赤くなる頬を太郎からそむけた。

 客たちが無言で見守る中、オコナが夏文旦をあすかの前に置いてほほ笑んだ。
「あなたのSAKEカクテル、作ってくれますか? 私が、ジャッジしましょう。外国人にも好まれるニューカマーなカクテルか、どうかを」
 いたずらっぽくオコナがウインクすると、銀平が「その話、乗った!」とカウンターを叩いた。龍二にジョージ、テーブル席のカップルや他の客たちまで、手を挙げて賛成した。
「仕方ねえな……まぁ、これまでのあすかのSAKEカクテルへの熱い思いからすりゃ、ハル子も了解するだろ」
 太郎がようやく笑うと、あすかは目頭を拭いながらカウンターの中に入り、神棚へ胸を張って、シェイカーの音を響かせた。
 仕上がった夏文旦のSAKEカクテルは、太郎の味よりもずっと洗練されていた。
 どよめく客たちの中、平が聞こえないほど小さい声でつぶやいた。
「ついでに、ポンバル太郎の未来の女将も頼みますよ。あすかさん」
 黄色い大きな文旦が、カウンターにデンと構えていた。