Vol.224 車エビ

ポンバル太郎 第二二四話

 都心のデパートが中元商戦の佳境を迎えると、ターミナルのポスターや電車の中吊り広告は隅田川の花火大会に入れ替わっていた。
 それと同じデザインの小さなポスターがポンバル太郎の壁に貼られ、青竹のぐい呑みを傾ける客たちは真夏の訪れを実感している。貼り出しを頼んだのは前・築地仲卸の元締めである葵屋 伝兵衛で、卸し組合は花火大会に協賛していた。

「1年が経つのって、年々、早く感じるなぁ。老けたせいかな」
 大吟醸を飲みながら独りごちる右近龍二を、カウンターの隅にすわっている初顔の老爺が、熱燗の盃を口元に止めてフッとほほ笑んだ。地味な絣の着流し姿の老爺は「まだ鼻たれ小僧じゃないか」と龍二へ失笑したように見えた。
 龍二の隣で本醸造の上燗を口にしている火野銀平が、ポスターのデザインをけなした。
「けっ! 俺ぁ、このデザインが気に食わねえんだ」
 銀平のしかめっ面は、ポスターの紙面でネジリ鉢巻きと半被を纏っている叔母の松子を睨んでいた。屋形船“お松丸”の上で威勢を上げる女将の松子は、隅田川花火大会の実行委員に名を連ねている。

「ちったぁマシなモデルを使えってんだよ! 皺クチャな婆さんのキマタ姿なんざ、花火がしょぼくれちまわぁ」
 すると、厨房から出てきた太郎が玄関を一瞥するふりで銀平を脅した。
「そんな悪口言ってると、松子さんの怒鳴り声が打ち上げ花火みてぇにドーンと飛んで来るぜぇ! あの人は、天性の勘の良さを持ってるからな」
 松子が載ったポスターの下のテーブル席では、平 仁兵衛がジョージとぬる燗の純米酒をさしつさされつしながら、かつて日本人が嗜んだ“酒道”を指南している。どうやら、ジョージの記事ネタを引き受けたらしい。

 お銚子は右手で、盃は左手で持つのが正式だとか、酒を相手の料理の上で注いではダメだのと、目からウロコのジョージだけでなく、店内の若い男性客たちも「それ、初耳学だな!」と平の解説に聞き入っていた。
 そんな空気に銀平は機嫌を直したのか、悦に入った表情で
「葵屋の伝兵衛さんの盃使いは、カッコ良いんだぜぇ」
と、龍二へこれみよがしに目の前の笊に重ねてある盃を一つ左手で取った。そして、糸底に人差し指と中指をからませ、盃のフチに親指だけを掛けた。上品な手先の形に、龍二が「女性的な持ち方ですね」と目を細めると、銀平は盃を口につけながら、右の手のひらで口元を隠した。
「ほう! 奥ゆかしい飲み方じゃねえか。粋な江戸っ子の伝兵衛さんが、そんなふうに飲んだのかよ」
「ああ。どういうわけだか、魚匠の仲間と飲む時はいなせな手つきだが、隅田川の花火を観る時ぁ、そのスタイルなんでぇ」

 いまだに謎のままだと、銀平はカウンターに頬杖をついた時、カウンターの端っこから、しゃがれた声が聞こえた。
「さっきのは、公家流の飲み方だ。伝兵衛の奴ぁ、公家流と武家流を使い分けてたよ。ちなみに、武家流てぇな、こうやるんでぇ」
 唐突に口を挟んだ老爺が盃のフチを左手の親指と人差し指で挟んで、糸底に中指と薬指を添えてみせると、カウンター周りがしんと静まった。着流しの袖から覗いた老爺の手首には火傷のような痕が目立ったが、盃を持つ手つきは美しかった。

 伝兵衛を奴呼ばわりするゴマ塩頭の老爺に、太郎と平は目を丸くした。龍二は、銀平が業腹にならないか気になったが、隣を見れば、腕を組んだまま老爺を誰何していた。
 熱心にメモを取っているジョージが、男に近づいた。
「その腕の傷は、どうしたのですか?」
 遠慮のない問いかけに、老爺は照れくさそうに手首をさすった。
「花火の火傷だよ。わしぁ、元は江戸花火師でよ。深川にある蔦屋の栄五郎てんだ……この店をわしに教せえてくれたのは、葵屋の伝兵衛だ。今日は昼下がりに、奴と花火大会の寄り合いに出てなぁ。おっつけ、やって来るはずだ」

 思いがけない花火師の素性に、カウンター席だけでなく、店内も驚いた。その声に勝る叫び声が、銀平から飛び出した。
「ああっ! 思い出しやした! 俺が築地で駆け出しの頃、伝兵衛の元締めに連れてかれた蔦屋の親方じゃねえですかい! すっかり頭が白くなられて、分かりやせんでしたよ」
 聞こえた太郎たちが腑に落ちると、栄五郎は目尻をほころばせて銀平にお銚子を差し出した。
「おめえさん、火野屋の跡取りだろ。なりだけは、デカくなったようだな……だが、貫禄はまだまだだ」
「お、恐れ入りやす……隅田川の花火、まだ手掛けてらっしゃるんで?」
 右手に盃を持ち替え、酒道の“お流れ頂戴”を受ける作法をわきまえている銀平に、松五郎はゆっくりと頷きながら答えた。

「いや、わしは後見人だ。若ぇ職人の仕事っぷりを、確かめてるだけだ。まぁ、ご意見番ってぇわけよ。それに……伝兵衛の奴とは、年に一度の楽しみがあってよう」
 松五郎は、壁に貼られた花火大会のポスターに目を細めた。そして、銀平に酒を注げとばかりお銚子を渡すと、盃を持つ手を武家流から公家流に変えた。
「楽しみてぇのは、お松丸で一杯やることだ。松子さんはよ、わしと伝兵衛の永遠のマドンナなんでぇ。若ぇ頃は、どっちが嫁にもらうかてぇ、凌ぎ合ったもんよ」
 しなやかな手つきで盃を干した松五郎は、この公家流の飲み方を教わったのも娘時分の松子だったとはにかみ、話を続けた。

「どうして公家流かってえと、わしら江戸花火師のルーツは、上方の大和国(奈良)なんでぇ。江戸に上って来た花火師が、日本橋で鍵屋(かぎや)てぇ花火屋を開いたんでぇ。最初は線香花火みてぇな小物から初めて、ついには将軍様から両国の川開きの大花火を任されるまでになった。だから、大和の公家流で花火酒を愛でる作法を、松子さんはわしに教せえてくれたんでぇ」
 龍二と平が顔を見合わせ、「へぇ、あの松子さんがねぇ」と声を重ねると、吹き出しそうな銀平が言った。
「ま、マドンナなんて、冗談でやしょう!? あの男勝りの婆さんに、そんな気遣いなんざ、あるはずがねえ」

 松五郎は首を横に振ると、太郎に冷蔵ケースの中にいる車エビを茹でてくれと注文した。車エビの青い目は光を宿し、まだ活きているのが見て取れた。
「その一方で、松子さんは江戸っ子の粋も大事にしてる。昔から葵屋のすこぶるつきに上等な車エビを、花火大会の頃になると、江戸の花火職人にふるまってくれてんでぇ。茹立って身を巻いた赤い車海老を、大輪の花火に見立て、験を担ぐんだ。粋なはからいの船宿の女将に、俺も伝兵衛も、惚れちまったんだよ」
 隠れた松子の志に銀平が言葉を失くしている間、ジョージは「いいお話だ!」とポスターの松子の写真に見入っていた。

 天然物の車エビに塩を振る太郎が、嬉しそうに言った。
「確かに、松五郎さんのおっしゃる通りだ。江戸前の車エビの縞柄は茹でると真っ赤に変わって、丸まった姿は、さながら夜空に咲く花火でさぁ」
 太郎の比喩に、平や龍二だけでなく、店内の客たちもなるほどと相槌を打った。その時、玄関の格子戸が心地良い音を響かせた。
「そこに、灘の升酒とくりゃ、隅田川の花火を愛でる江戸っ子には極上の贅沢てぇもんだ」

 聞き覚えた低い声の主は、葵屋の伝兵衛である。
 ガッテンだとばかりに太郎が冷蔵ケースから木桶仕込みの灘の純米酒を取り出すと、伝兵衛を追いかけるように、「鍵屋ぁ! 玉屋ぁ!」と威勢のいい掛け声が玄関から飛んだ。
「太郎さん! 今夜は、あるだけの車エビを茹でとくれ! やい、銀平。いつまでノンビリしてんだい! 品切れする前に、火野屋から届けてくんな」
 花火大会のPRに駆け回っている半被とキマタ姿の松子を、見覚えのある客たちが拍手喝采で迎えた。タイミング良くやって来た松子は、やっぱり“持ってる”と常連客たちは笑顔を見合わせた。
 松五郎と伝兵衛に挟まれて嬉々とする松子に、困り顔の銀平が独りごちた。
「まったくよう。年甲斐もねぇババアだぜ」
 その嬉しげな口ぶりの前に、茹で上がった車エビの湯気が揺れた。
「だがよ、あの粋な火野家の血は、おめえにも流れてんじゃねえか。魚匠として大輪の花、いつか咲かせろよ」
 太郎の声に平と龍二が頷くと、松子とジョージが車エビを手にして一緒に叫んだ。
「玉屋ぁ! 鍵やぁ!」