Vol.221 鱧祭り

ポンバル太郎 第二二一話

 鴨川の流れが運ぶコンチキチンの音色に、川床で涼む客たちの顔がほころんでいる。
 京都市内の気温は、すでに35℃。うだるような真夏日、祇園祭りの宵山を迎えた四条通りは、まさに人種の坩堝と化していた。

 東山区にある割烹「若狭」の女将・仁科美枝から誘われて、太郎と剣は初めて山鉾巡行の見物にやって来ている。大阪からやって来る中之島哲男とは、烏丸にある長刀鉾の町会所で待ち合わせていた。
 今日だけでも30万人の人出が予想され、太郎は踵を詰めるような群衆に、中学生の剣といえども、迷子になりかねないと心配顔だ。

 二人の前を歩く舞妓さんの格好をした外国人客は、慣れないこっぽりに足元がおぼつかない。180㎝を超えている白人女性の背丈には、だらりの帯も寸足らずである。
「何か、おかしい。やっぱ、着物って小柄な日本人が似合うなぁ」
 剣のつぶやきが聞こえたのか、振り返った白人女性は口をへの字に曲げた。日本語が理解できるようだ。すると、太郎たちの後ろを歩く美枝が間に割って入り、流暢な英語で女性に詫びた。美枝の生絹(すずし)の着物には、若鮎の柄が踊っている。

 柳腰と三つ指突きのしぐさで謝る美枝に白人女性は怒るのを忘れて見入り、英語まじりの日本語で何事かを質問した。
 白人女性が立ち去ると、迂闊に口を滑らせた剣は美枝に詫びた。剣の背丈は、美枝をすでに超えている。
「ごめんなさい……ところで、あの外人さんと何をしゃべったの?」
「鱧料理のことどす。どこか美味しいお店を教えて欲しいって、言わはったの。でも、今日はどこもいっぱいやし、泊まってはるホテルの和食レストランで頼むのが安心どっしゃろって、教えてあげました」
 驚き顔の剣を代弁するかのように、太郎も声音を上げた。
「へぇ! 鱧を食いたいなんて、どこの国の人なんだろ? 関東人の俺だって、あまり口にしねえのに」

 確かに、鱧の骨切り包丁を持っている太郎だが、夏に数回しか使わないのは、客からの注文が少ないせいもある。関東は、そもそも鱧を口にしない土地柄だ。
「祇園祭りは、鱧祭りとも呼ばれますよってねぇ。毎年、うちにやって来る京都好きなイタリア人のご夫婦は、必ず、鱧の落としを召し上がらはりますえ。それに、伏見の日本酒もお好きどす」
 美枝の教える鱧祭りを、太郎と剣は初耳である。祇園祭りが始まる頃、関西で獲れる鱧は産卵前のために身が太り、絶品の味になる。特に梅肉を添える“鱧の落とし”は京の夏を象徴する味覚で、家々では祭りの客を鱧料理でもてなすのが、古くからの習慣だと語った。後ろを歩く旅行客のグループが、美枝の上等な和装に感心しながら、鱧のウンチクに聞き耳を立てた。

 四条通りから、美枝は喧騒を避けるように路地へ足を進めた。古い町屋がそこかしこに佇む界隈は、まさに“ウナギの寝床”。東京の下町と趣きのちがう下京区に、剣は目移りしている。烏丸までやって来ると、黒山の人だかりの中に長刀鉾(なぎなたほこ)が聳えていた。傍の町会所には、ふるまい酒の伏見の菰樽が積まれている。
「祇園祭りの山鉾(やまぼこ)は、山車(だし)のことどす。2種類あって、真木と呼ばれる飾りが天に向かって伸びる“鉾”と、真木に松の木を使う“山”があって、両方を合わせて山鉾。20台以上ある山鉾が並んで巡行する姿は、壮麗どすえ」

 山鉾巡行の象徴でもある長刀鉾は美枝のお気に入りで、保存会にも入っている縁から鉾の中を鑑賞できるのだ。
 西陣織や更紗を飾る絢爛豪華な鉾に、剣は興奮して足を踏み入れた。その時、羽織袴姿の壮年の男が呆然とした表情で台座から見つめていた。
「あら、ちょうどよろしゅうおしたわ。太郎さん、こちらは長刀鉾保存会の会長をなさってる京極はんどす」

 しかし、顔見知りの美枝が話しかけても、太郎が深くお辞儀しても、京極の視線は剣に釘付けのままだった。
「秀雄、お前は秀雄……いや、そんなわけはない。あの子は、15年前に亡くなっとる。それにしても、よう似てる。あっ、仁科はん、失礼しましたな。こちらが、東京からお越しの与和瀬はんどすか。京極どす。どうぞ、よろしゅうに」
 気を取り直した京極は長刀鉾の台座に正座すると、太郎へ詫びるように額づいた。風格の漂う京極の居住まいに、太郎と剣はあわてて膝を突き、挨拶を交わした。

「さっきの秀雄はんとは、京極はんのボンのことどすか? あてがお聞きしてるのは、若うしてお亡くなりになったそうで、お気の毒なことどしたなぁ」
 京極を気遣う美枝に、太郎は剣の背中を押して
「息子の剣です。ご子息様に似ているのでしたら、遠慮なく、ご覧ください」
と笑った。その言葉に、京極の肩は力を抜いた。
 剣も京極の前に膝をいざりながら、鉾の壁や床の装飾をまじまじと見つめた。
「長刀鉾にはペルシャ花文様の絨毯、ペルシャ絹の絨毯、中国の玉取獅子図の絨毯、それに、中東連花葉文様のインド絨毯が使われてます。いずれも、私の店が修理を手伝わせてもろてます」

 剣の横顔に目を細める京極に、太郎が訊ねた。
「そりゃ、大変なお仕事ですね。京極さんのお仕事は、西陣織の関係ですか」
 剣を気に留めている京極が太郎へ目顔で頷くと、美枝が答えた。
「京極織物店は、江戸時代の初めから続く四百年の店どす。お倉には、南蛮渡来の織物もぎょうさん眠ってるそうどっせ。なあ、京極はん」
「げっ! 四百年なんて、凄い老舗じゃん!」
 目を丸くした剣が京極の顔を見返すと、彼は嬉しそうにはにかんだ。
「いやいや、京都の洛中には、それぐらいの商家がザラにおます。ほんまに老舗と言えるのは、応仁の乱の後、ずっと続いてる御店どすな」

 太郎が応仁の乱の起こった年代を思い出している隙に、剣が驚愕した。
「ふぇ~! 応仁の乱って、西暦1477年に終わったから……500年以上も続いてる店があるのか。そうか! 京都は昭和の戦争で、空襲を受けてないんだよね」
 剣がすぐに京極へなじむと、美枝は太郎へ「おおきに」と耳打ちした。
 京極の手がゆっくり伸びて、剣の頭を愛しむように撫でた。
「なかなか、剣君は賢いどすなぁ。どうれ、おもてなしに、会所の座敷で軽くお食事なさいまへんか。太郎はん、伏見のお酒で一献やりまひょ」

 長刀鉾から町会所へ剣と並んで歩く京極に、行き交う町衆の面々が丁寧に会釈した。歳のわりに深い目尻の皺から、京極の人となりが覗えた。
「歴史と伝統がある町の長ってえのは、オーラがありますね」
 太郎のつぶやきに、美枝も
「江戸にはない、京都の粋どすなぁ」
と頷いた。

 広い三和土と上がり框のある会所は、賑やかな山鉾の中と反対に、地域の人たちが静かに交流している。その卓袱台の真ん中に、大皿に盛られた野菜の煮物や豆腐田楽が並んでいる。
「あっ! これって、京料理のおばんざいでしょ? 美味しそうだなぁ」
 京極は、料理好きな剣が太郎の店を手伝っていることを、あらかじめ美枝から聞かされていた。それだけに、京都の味覚についても、つぶさに教えようとした。
「おばんざいは、京料理やない。家庭のおかずどすわ。そやから、質素な献立が多いでっしゃろ。贅沢しないのが、おばんざいの基本どす」

 京極は、大皿に盛られた茄子とニシンの煮物、大根と湯葉の和え物、蕪の酢の物を説明しながら、自分が幼い頃の思い出を語った。
 老舗の織物屋であっても、食べることに贅沢はしないのが京都人。むしろ、着る物には金の糸目をつけない。食い意地のはった大阪が“食い道楽”なら、京都は“着道楽(きどうらく)”と呼ばれている。そして、客人が家へ来る時だけはご馳走を用意するので、京都には仕出し屋が多いのだと語った。

 大皿料理を取ってやろうと、京極が会所を手伝う女衆を呼んだ。現れた婦人は、ギョッとした顔で剣を見つめて
「いやっ。秀雄に、そっくりやおへんか」
と京極に振り向いた。婦人は、京極の妻だった。
「ああ、あいつが逢いに戻ってくれた気がするなぁ……与和瀬さん、今日は剣君に甘えさせてもろて、よろしおすか」
 京極が卓の上にある伏見の純米酒を手にすると、太郎は柔和な顔に変わって盃を受けた。肝心の剣は、会所の男衆が羽織っている長刀鉾の白い半被に見惚れている。

「あの半被が、気になりますのか? 良かったら、着てみなはったらええわ」
 京極の妻の口元は、かすかに震えていた。
 腕を通した半被は、剣にピッタリだった。美枝がガラ携で剣を撮影する間も、京極の妻は唇を噛み
「秀雄が生きてたら、あんな姿で、祇園祭りに出かけたどっしゃろうねぇ」
と目尻を潤ませていた。
 その時、会所の暖簾が捲り上がり、太い声が聞こえた。
「祇園祭りは雅やかな祭りでっけど、しんみりするのは、あきまへんなぁ。コンチキチンの音は、ゆるりと楽しく聞きまひょ!」
 卒然と聞こえた中之島の声に剣が嬉々として駆け寄り、半被を見せつけた。
「考えてみりゃ、剣と長刀は親戚みてえなもんです。こんな息子で良けりゃ、京極さんのなじみにしてやってもらえますか」
 酒の盃を飲み干した太郎が京極に返杯をすると、彼は両手で「おおきに……おおきに」と受け取った。
 盃を満たす伏見の酒に、コンチキチンの響きが優しい波紋を描いていた。