Vol.209 天狗面

ポンバル太郎 第二〇九話

 プロ野球が開幕して、後楽園ドームや神宮球場周辺は、にわかに活気を帯びている。
 うなぎ登りの気温にマスコミはスポーツの春を謳い始め、額から汗がしたたるほどの暑さにビール商戦は早くも熱気を帯びていた。

「WBCの次は開幕戦、主力選手たちは疲れてるだろうなぁ。夏まで持つかな」
 ポンバル太郎のカウンター席でスポーツ新聞を読む右近龍二は、季節限定の桜吟醸のグラスを手にして独りごちた。紙面を覗く平 仁兵衛が口にしている純米酒は、いつもの燗より少しぬるい日向燗である。
「こちらのページは、春の叙勲ですか。今年も、錚々たる方々が並んでいます。位人臣を極めるですねぇ……画家、建築家、ほう! 面打ち師もいらっしゃるのですねぇ」
 列記された叙勲者の名前をつぶやく平の隣から、ぶっきらぼうな声がした。

「平先生。勲章をもらえる人って、誰が決めてるんで?」
 築地・八百甚の誠司は、自分が納品した菜の花で仕込まれたおひたしに本醸造の熱燗を合わせている。
「まあ、最終的には内閣総理大臣ということになりますか」
 空いた誠司の盃に平がお銚子を傾けながら答えると、龍二が口をつないだ。

「国が定めている叙勲候補者推薦要綱に基づいて、中央省庁が所管分野ごとに各都道府県や関係団体から、世の中に功績のある候補者を選ぶんだよ」
「ふ~ん。そんじゃぁ、官僚のお気に入りじゃねえと、もらえねえって寸法ですかい。面白くねぇ。うちの業界じゃ、築地の元締めを長年務め上げた葵屋の伝兵衛会長なんて、イチオシなんですがねぇ」

 誠司のぼやきに、カウンターの端に座っているハンチング帽をかぶった老爺がほんのりと赤くなった顔をもたげた。その足元に置かれた大きな箱を包んだ風呂敷が、平の興味を引いた。
「伝兵衛さんがひと角の人物であることは、まちがいありませんよ。あの方の気風の良さ、竹を割ったようなお人柄は惚れ惚れします…そう言えば、しばらく伝兵衛さんをお見かけしませんねぇ、太郎さん」

 平は棚に置いてある伝兵衛愛用のぐい呑みを一瞥して、厨房へ声を投げた。それは平が伝兵衛に贈った作品で、波紋を描いた柄の向きが、数週間、変わっていないのを気づいていた。
「銀平の話によると、風邪をこじらせて臥せっていたそうです。今夜あたりいらっしゃらねえかと、伝兵衛会長が指南してくだすった柚子と生姜を合わせた味噌汁を用意してんですがね。若ぇ頃、その味噌汁で命を救われたそうですよ」
 確かに、厨房の奥からは柚子の爽やかな香りが漂っている。テーブル席の客たちも匂いの出所はどこかと、鼻先をひくつかせていた。

「味噌汁で命拾いって、それは、ちょっと大袈裟じゃないかなぁ」
 眉唾な話じゃないのとばかりに龍二が失笑すると、カウンターの隅から声が上がった。
「大袈裟じゃねえ! 本当の話だ……大将、その味噌汁を一杯、わしにもらえんかね」

 唐突に立ち上がった老人は、帽子を取って太郎へ頭を下げた。カウンターだけでなく、客席の視線がいっせいに老人へ注がれた。
「えっ、ええ、よろしいですよ。遠慮しなくたって、注文なんだから大丈夫ですよ」
 太郎が老人に着席を勧めて厨房へ戻ると、珍しく平が素っ頓狂な声を上げた。

「おおっ! あなたは、この新聞に載っている面打ち師の観世幽庵さんじゃありませんか!?」
 叙勲者の写真を示す平の指は、驚きのあまりに震えている。一介の陶芸家の平からすれば、紫綬褒章を受ける幽庵は巨匠と言っても過言ではない。
 龍二や誠司だけでなく、テーブル席の客も新聞を覗き込み、幽庵と見比べて「本当だ」と感心した。

 ふいに、柚子の香りが店内に広がった。開いた入口の扉から厨房の暖気が外へ滑り出したせいだが、そこに着物姿の葵屋の伝兵衛が笑顔をほころばせていた。
「う~む、いい匂いでぇ。この味噌汁の匂いをかぐと、風邪なんて消し飛んじまうぜぇ。太郎さん、ありがとうよ。もう、すっかり治っちまった……うん? おっ、おめえは、観世幽庵!」
 声を失くしている伝兵衛を初めて目にする誠司が
「いってぇ、お二人はどんな仲なんでぇ?」
と伝兵衛と幽庵を交互に見入った。

 対峙する幽庵と伝兵衛は、お互いの出方を待つように黙していた。客席が固唾を呑む中、先に口火を切ったのは伝兵衛だった。
「この幽庵は、銀座にあった能道具屋の道楽息子だ。わしとは、小学校から一緒でよう。悪さもよくやった、腐れ縁の仲だよ」
「てやんでぇ。おめえに言われたかねえや……だが、ずいぶんと無沙汰をして、すまなかったな。築地の葵屋に訊けば、ここに来ていることが多いって聞いたもんでな」
「15年ぶりか。お互い、めっきり皺が増えちまった。叙勲したんだって……長生きはしてみるもんだな、幽庵」

 カウンター席の隣に座りながら苦笑する伝兵衛に、幽庵が緊張を解いて苦笑した。
「伝兵衛だって、築地の元締めに昇りつめたんだろ…だがよ、叙勲はおめえと生涯付き合えたお陰だ。ありがとうよ」
 返された言葉に、伝兵衛が白い鬚跡をさすりながら答えた。
「ああ。あん時に天狗様の味噌汁を口にしてなけりゃ、わしらはとっくの昔にお陀仏だったなぁ」
 伝兵衛の言葉に真顔になった龍二が「さっきの話は、マジなのか」と洩らし、味噌汁の入った椀を運ぶ太郎もまばたきを忘れていた。

 幽庵と伝兵衛の視線が、湯気を揺らせる朱塗りの椀に止まった。柚子と生姜の香りを吸い込んだ幽庵は遠い目をしながら、客たちへ聞かせるかのように口を開いた。
「45年前の豪雪の山形……忘れやしねえ。スキー旅行へ出かけた俺たちゃ、若気の至りで雪の中で遭難しかけた。雪国で車の運転なんて初めてのくせに、なめちまってよう。降り積もる雪に身動きが取れねえで、エンジンをかけたまま眠っちまったんでぇ」

 そして雪は車のマフラーを塞ぎ、一酸化炭素中毒になりかけた二人を、四輪駆動のジープで通りかかった夫婦が助けたのだった。伝兵衛たちが担ぎ込まれたのは地元で代々続く温泉旅館で、夫婦は15代目だった。
「合掌造りの座敷に寝かされたわしらは、同じ夢を見てうなされていた。立派な鼻をした天狗が現れてよ……怖い赤ら顔で、説教をするんでぇ。おめえら、都会のドラ息子はもっと一所懸命に働け。雪国の連中は冬場も酒造りで汗水たらしてせっせと働いてるってえのに、怠けて遊んでるんじゃねぇってよう」
 築地中興の祖と称えられている伝兵衛が怠け者だったなど想像もつかない誠司は、微動だにせず聞き入っている。
「おまけに、宿のご夫婦がこしらえてくれた味噌汁の匂いで目が覚めた途端、飛び上がるほど驚いた! 目の前の柱に、夢に見た天狗さんが掛かってたんでぇ。しかも、旅館の名前も天狗屋ってえんだからよ。おっかねえったら、なかったぜ」

 およそ紫綬褒章を授かるような上品さとかけ離れた幽庵のべらんめい調に、店内の客たちは不審げだったが、平は
「こんな市井の芸術家こそ、褒章されるべきです」
と嬉しげに龍二へ酌をした。

 幽庵に改めて挨拶した太郎が、味噌汁の椀を置きながら二人に訊ねた。
「この味噌汁で、冷え切った体を回復させたってぇわけですか」
 口をつける前に、伝兵衛が椀へ合掌して言った。
「ああ、温泉やどぶろくも効いたが、しみるような柚子と生姜のぬくもりが瀕死のわしたちを蘇らせてくれたんでぇ」

 伝兵衛が相槌を求めるように、幽庵へ語末を向けた。しかし、幽庵は応えずに、ため息を吐いて天井を見上げた。
「……伝兵衛、あのご夫婦は去年の暮れに亡くなっちまった。それと引き換えに、俺は紫綬褒章をもらったような気がしてよ。あん時もらった命の御礼を、まだ返し切れてねえ。だから、この面を打ってみたんでぇ」
 夫婦の死を聞いて絶句している伝兵衛の前で、幽庵は風呂敷包みを開いた。箱の中から現れたのは、真っ赤な鼻を反り立たせた天狗の面だった。

「そ、そっくりだ。あの時の夢の天狗様に! おめえって奴は、てえしたもんだな」
 伝兵衛の指先が天狗の面を撫でると、ツヤ光る大きな鼻に見惚れる誠司の隣で龍二が言った。
「僕の田舎の土佐にも、天狗伝説があってね。子どもの頃、親父に『悪さをすると、天狗に連れていかれるぞ』ってよく脅されたよ。今の時代、天狗って忘れ去られているけど、日本文化には欠かせない存在かも知れないな」
 それに頷く店内の年配客たちも、口々に若い部下へ天狗の思い出話を言って聞かせた。

 天狗面の美しさに見惚れていた平が、伝兵衛と幽庵に盃を渡しながら訊ねた。お銚子は、厨房の太郎が燗をつけている。
「ところで、その天狗の面は、どうなさるのですか? 幽庵さんの作品ですから、やはり美術館とかに収蔵されるのでしょうかねぇ」
「いや、こいつは伝兵衛へ贈るつもりで打ったんだ。受け取ってくれ」
 畏まって差し出す幽庵に、伝兵衛は首を横に振った。
「これはわしら二人が、これからもまっとうに生きていくための守り神だ。だからよう、このポンバル太郎に飾ってもらって、おめえとわしがここへ来りゃ、いいってことじゃねえか。なあ、太郎さん」

 思いがけない話に、龍二と誠司は手を叩いてはしゃいだ。
 太郎は気後れしたが、平が
「天狗様に説教してもらわないといけない人が、もうすぐやって来そうですしねぇ」
と後押しをした。
「なるほど、ちげえねえや」

 伝兵衛が意を得たとばかりに笑った途端、玄関の鳴子が響いて、聞き慣れた声がした。伝兵衛の江戸小紋の羽織に気づいた火野銀平は
「おお! 葵屋の元締め! もう、具合はよろしいんですか!? それなら、今夜はあっしの奢りで、ゲン直しに銀座に繰り出しやせんか」
とカウンターへ近寄った。その瞬間、振り向いた伝兵衛がつけた天狗の面に、銀平は一尺ほども飛び上がった。
「うっへえ! て、て、天狗だ~。山に、連れてかれちまう」
 思わず尻餅をついた銀平に、大爆笑が巻き起こった。
「ありがたく、飾らせてもらいやしょうかねぇ。酔うとすぐ天狗になっちまう、銀平の戒めにもね」
 太郎の酌に盃を重ねる伝兵衛と幽庵は、天狗面が笑って見えた。