Vol.205 アオヤギ

ポンバル太郎 第二〇五話

 彼岸前まで一週間、居座り続けた冬将軍はようやくロシア大陸へ引っ込んだが、東京は冷たい雨模様の毎日だった。花冷えする千鳥ヶ淵の桜並木がうっすらと赤味を帯び、コンビニ業界では、お花見弁当の予約合戦が始まっている。

 ポンバル太郎でも、今年から日本酒に合う酒肴のお花見弁当を売り出す。酒粕に漬けたカラスミ、大吟醸の煎り酒を使ったカレイの山椒焼き、マダイの松皮の酒びたしなど、江戸前の魚だけを使ったこだわりの珍味ばかりだが、最後の一品を太郎は決めかねている。
 今夜も試しに作った肴を格子で仕切った折箱へ太郎が詰めると、カウンター席の客たちは感心し、唾を呑んでいた。すでに予約は20件を超えている。

「まるで肴の玉手箱ね。4月になるのが楽しみだわ!」
 高野あすかは、しなやかに動く太郎の指先と肴の彩りへ見惚れながら純米吟醸のグラスを口にした。隣の席では、ジョージがスマホのカメラを使って折箱の中身を撮っている。
「ファンタスティック! アメリカ人がいくら修行したって、こんなに美しい肴はできませんね。それに、味付けの工夫もひと味ちがう。これならスッキリ味やコクのあるタイプなど、いろんな日本酒と合わせることができます」
 流暢な日本語だけでなく和食に詳しいジョージを、テーブル席の女性たちが「すごい外人さんね!?」と誰何した。最近、メディアに登場しているあすかは酒食ジャーナリストと気づいたが、ジョージの方が彼女たちの興味をそそった。

「太郎さん。あと一品は、何ですか?」
 ジョージがスマホの画面から顔を離しながら、一つだけ空いている折箱の仕切りを凝視した。太郎はゆっくり頷くと、腕を組んだまま答えた。
「まだ、悩んでんだ……もうすぐ、剣が答えを持って帰って来るけど、この季節の旬の材料でなきゃダメだ。実は、今回の酒肴弁当のアイデアは剣から出たんだよ」
 照れ臭そうな太郎だが、口元はほころんでいる。
「まんざらでもないって顔してるわよ、太郎さん。でも、剣君が選ぶ食材、私も楽しみ。ねえ、ジョージ! 一度、日本の料理屋の跡継ぎ特集って記事を、アメリカの雑誌で組んでみない。親の料理店を誇りにして、手伝っている子どもたち。日本らしくって、ウケると思うんだけどなぁ!」
 やけに肩入れするあすかにテーブル席の女性たちは太郎へホの字だと直感した時、玄関の鳴子が不機嫌そうに暴れた。

「だけど、剣ちゃん。それって、バカ貝だろ? この季節なら、アサリが一番うめえに決まってんだ。銀平の兄貴に頼んで、火野屋からすこぶるつきにうめえアサリを持って来てもらえばいいじゃねえかよ」
「いいんだよ、アサリじゃダメなの! それに、これはバカ貝じゃない。アオヤギって風流な名前があるんだよ」
 押し問答するように入って来た剣と八百甚の誠司に、あすかが苦笑した。
「最近、誠司君もすっかり常連入りしちゃって、まるで兄弟喧嘩だね。でも、剣君が選んだのはバカ貝かぁ……確かにアサリに比べると、この花見弁当にはイマイチかなぁ」

 バカ貝と耳にしたテーブル席の女性たちは、「そんな貝、あるの?」と顔を見合わせた。彼女たちへ呆れ顔で振り向くあすかを、太郎の声が制した。
「知らなくって、当然だよ。バカ貝なんて名前、お世辞にもうまそうじゃねえから……剣、どうして最後の肴に、それを選んだ?」
 訊ねる太郎の語気の強さに、ジョージがスマホを録音モードに切り替えた。剣がどう答えるのか、ジョージは興味津々である。
 あすかも酒食のプロの顔に変わると、革パンツの膝を組み直し、まっすぐ剣を見つめた。気づくと、剣は店中の視線を集めていた。

「最後の一品は江戸前の貝にしたかったんだけど、決めきれなくて……銀平さんに、相談したんだよ。ポンバル太郎ならではの、誰もが美味しいって感じる貝の肴は何かって。極上のハマグリやアサリは高くて、庶民向きじゃない。だからって、最近流行してるホンビノス貝は外来種だ。それで、出した答えがバカ貝だった」
 客席から落胆したようにため息が洩れると、カウンター席へ座る誠司の声が裏返った。
「へっ!? じゃあ、銀平の兄貴は承知の上で、バカ貝を勧めたってぇのかよ? 信じらんねえ」
 呆れ顔の誠司に客たちも相槌を打った時、玄関から埃を吸った雨の匂いが吹き込んだ。
「ああ、そうだよ! バカ、バカってぇけどよ、その貝は、何にも知らねえおめえほどバカじゃねえんだよ」

 銀平は雨に濡れた禿頭を拭いながら、バカ貝を選んだ理由を続けた。
 バカ貝の名前は美味しくなさそうだが、剥き身になるとアオヤギという高級寿司ネタに化ける。そして、その貝柱は「小柱」と呼ばれて、一流の天麩羅店のかき揚げに使われる。アオヤギの名は、江戸前の屋台寿司でこの貝が使われだした頃、集積場となっていた千葉県の青柳の地名で呼んだからで、粋な江戸庶民がつけたあだ名だと胸を張った。

 銀平を見知った客がさすが築地の仲卸商だと褒めそやせば
「今夜は、銀平さんに花を譲ってあげるわ」
とあすかも隣の席へ銀平を誘った。
 銀平は剣の肩を叩きながら
「まだまだガキと思ってたが、てえした奴だぜ……もう一度、おめえがアオヤギを選んだウンチクを親父に言ってみろよ」
とカウンター席へ腰を下ろした。

 店内の全員が聞き耳を立てる中、剣はバカ貝の入ったトロ箱を太郎へ渡しながら、声を高くした。
「バカ貝ってかわいそうな名前だけど、その由来にはいろいろあるんだ。殻が薄くて割れやすいから“破家貝”、砂底を移動するのが早いから“場替えする貝”、だらしなくバカみたいに半分口を開いてるからってのもね。江戸湾じゃ、昔からたくさん獲れた。ただ、砂抜きが難しいから敬遠されてたのを、寿司職人が丁寧な仕事でむき身にして、アオヤギって呼んだ。寿司屋で“バカ貝、一丁!”じゃ、威勢が悪くって、売れないもんね」
 下りのひと言に意味を解したジョージが吹き出すと、誠司も「ちげえねえや!」と腹を抱えて笑った。

 店内が和やかな笑いに包まれる中、太郎が剣に熱いまなざしで訊いた。
「おめえは、アオヤギの、どんな肴を考えた?」
 あすかが息を止めて聞き入ると、ジョージが親子二人の表情をスマホのカメラで狙った。
「煮きり醤油で味付けした、湯引き。味の濃い江戸の地酒に合うと思うんだ」
 ちょうど空いている折箱の最後の仕切りは、まわりの肴の彩りと合わさって煮切り醤油がピッタリとくる。
 会話を聞いていた銀平が目尻をほころばせて、あすかに言った。
「俺はよ、剣が高校に入ったら火野屋でアルバイトさせてぇ。こいつの知識は、築地の魚匠にとっても宝物だよ」
 ほほ笑むあすかは、銀平へ冷酒グラスを差し出しながら、太郎と剣を見つめた。
「よし、アオヤギの煮切り。それで、いこうじゃねえか」
「うん、お願いします」
 頷く二人の横顔を見つめるジョージは、写真を撮り忘れるほど感動していた。