シベリアから南下したマイナス40℃の大寒波が、三日前から北日本を覆っていた。
旭川市内ではダイヤモンドダスト現象が発生し、日光の華厳の滝も凍りついていると、テレビニュースがかまびすしい。
ポンバル太郎では、夕刻から東北の蔵元からの電話が鳴り続いた。ここ数日の冷え過ぎのせいで、大吟醸のモロミの上搾を少し遅らせる連絡だった。人気の銘酒を待ち焦がれている客たちからは、ため息が洩れた。
「でも、仕方ないですねぇ。上搾の日取りを決めるのは、杜氏の責任。いくらIT設備が整っている蔵元でも、それだけは人の経験と勘じゃないとダメでしょう」
カウンター席で上燗の純米酒を独酌する平 仁兵衛が、気落ちしている客たちを納得させようと、聞えよがしに太郎へ話しかけた。
「こんなに冷えると、蔵の中の温度もぐっと下がるはずです。モロミの発酵が、おとなしくなるなぁ。かと言って、最終の仕上げ段階で、暖気樽を入れるわけにもいきませんしね。まぁ、ここは杜氏に任せて、辛抱して待つしかないでしょう」
太郎も言い含めるように客席を見回すと、店内の暖房温度を上げた。窓の外は、いつの間にか粉雪がちらついている。玄関扉の隙間から冷気が忍び込んでいるせいか、今夜は小鍋をつつく客たちが多い。テーブル席に座る二人連れの中年女性も、注文したタラ鍋を待っていた。
その湯気のむこうで、扉の鳴子の音に右近龍二の震える声が重なった。
「ううむ、寒い! 太郎さん、熱燗をつけてもらえますか。それと、魚ちり鍋を二人前。平先生とカウンターに横並びでつつきますから」
かじかむ龍二が吐く息の白さに、平が
「どうせなら、チゲ鍋にしてはどうですか?」
と本日のおすすめメニューを指さした。太郎の作るチゲ鍋は本場の韓国トウガラシを使い、半端じゃない辛さと火照り具合が人気である。
「あったまりますよねぇ……でも、にごり酒やどぶろくには合うけど、吟醸酒にはちょっとねぇ」
カウンター席に座りながら龍二が首を捻ると
「もう少し、まろやかな辛さだといいわけですか」
と平も頷いた。しかし、その注文には応えられないとばかりに、太郎は立てた指を横に振った。
「うちのチゲ鍋は、にごり酒限定みてえな鍋だ。滝のような汗をかくほどカプサイシン効果がある韓国トウガラシが売り物ですからね……魚ちり鍋なら、柚子コショウはどうだい?」
太郎の提案に龍二がなるほどと頷いた時、テーブル席の女性の一人が
「あのう……よろしかったら、これ、使ってみませんか」
と布製のトートバッグから小さな赤い瓶を取り出した。朱色の濃さが、塩漬けのウニのようにも見えたが、ラベルに目を細める平は「か・ん・ず・り」と声を出しながら、はたと気づいた。
「これは確か、新潟県の香辛料ですねぇ。魚ちりに、打ってつけですよ。昔、スキー帰りの友人からもらったことがあります。能登のいしる鍋にも、よく合いましたよ」
嬉々とする平に、女性たちは胸の前で手を合わせて喜んだ。
女性からかんずりの瓶を渡された太郎は
「名前を聞いたことはあるけれど、まだ使ったことはないねえ。これが、かんずりですか」
とすでに空いているフタを取った。どうやら、その女性はかんずりを持ち歩いているようである。
龍二もかんずりを初めて目にするらしく、赤い色に辛さを想像しながら女性へ訊いた。
「いわゆる、マイ香辛料ですか。それじゃ、お二人は新潟出身ってこと?」
二人の女性を見つめる龍二は、よく似た彼女らの面差しにあらためて気づいた。それだけでなく、透けるような肌の白さに平と太郎は視線を止めていた。
「はい、妙高市です。かんずりの原料のトウガラシは、うちの家が育てた物なんです。発酵食品だから、辛さだけでなく旨味もたっぷりなんですよ」
しゃべる口元のキメ細かい肌には、笑いジワもなかった。
「それに、できあがるまで4年もかかります。“西の柚子コショウ、東のかんずり”って言われてます。さっき注文したタラ鍋に、これを入れるんです」
声音までそっくりな二人に、素性を見抜いた平が
「越後美人の姉妹ですねぇ。新潟は、年間の半分は陽が射さないそうです。お二人は、日焼けせずに育ったのでしょうねぇ」
と目尻をほころばせた。
「でも、その分、性格は暗いかも知れませんよ」
「そうそう、かんずり食べてる時は、ネアカかも!」
答える姉妹は引間さくら、引間ゆりと名乗り、代わる代わる、かんずりを解説した。
上越地方では、今でも一家に一瓶、「かんずり」が常備されている。
漢字で「寒造里」と書き、冷え込みが厳しい時期にトウガラシを雪の上でさらすことで甘みを引き出すのだが、まず、その前に海水塩で塩漬けにして発酵させる。
引間家では三種類のトウガラシの種を春先にまき、夏に収穫するが、天候によって味わいに個性が生まれ、夏場に日照りが強いと辛くなり、梅雨が長いと酸っぱくなる。そして、塩漬けをしてアクを抜いたトウガラシを厳冬期に三日間ほど雪にさらすことで、雪は塩分を吸ってトウガラシの甘みを引き出す。つまり、雪さらしが、かんずりの秘訣である。
「そんなかんずりを使った料理には、同じ発酵食品の日本酒は合いますし、この辛さと旨味には、やっぱりスッキリとした淡麗辛口の越後のお酒ですよ」
と引間姉妹は口を揃えた。
いつの間にか店内の客たちが興味津々に背伸びして、美人姉妹とかんずりの瓶を見つめていた。
太郎がドロリとしたかんずりを小皿に移すと、ふっと辛そうな匂いが平の鼻先をくすぐった。
「聞くところによると、あの上杉謙信も愛用したらしいですねぇ」
舐めたそうな口元で平が訊ねると、姉のさくらが答えた。
「越後の上杉家のお侍さんたちは、戦の時には、かんずりをいつも持っていたそうです。舐めて体を温めたり、手足に塗って凍傷を防いだそうですよ」
「へぇ~! それじゃ、しもやけ体質の僕にピッタリだ」
龍二は小皿のかんずりを指先で舐めると、魚ちりに合わせる新潟の純米酒を熱燗で注文した。
その時、大きなクシャミに続いて、江戸っ子言葉が玄関から飛んで来た。
「ハックショイ! うう~、冬将軍の野郎め、上等じゃねえか! 太郎さん、とびっきり熱くしたお燗酒に、煮えたぎった鍋を頼まぁ!」
寒波にたてつく火野銀平に客たちが呆れると、妹のゆりは太郎へ「あの方にもかんずり、どうぞ」と苦笑した。
「その前に、あいつを雪ざらしで、アク抜きしてえもんだ」
太郎の言葉に、カウンターの面々がどっと笑った。
「なにが、おかしいんでぇ……ところで、そのかんずりって、なんでぇ?」
冷えのぼせした銀平の顔が、かんずりのように赤く染まっていた。