Vol.180 ヤリイカ

ポンバル太郎 第一八〇話

 目黒のサンマ祭りを目前にして、築地市場は三陸沖の豊漁に活気づいているとスポーツ新聞が報じていた。記事によると、場外の店頭には外国人観光客が踵を詰め、炭火焼きサンマの白い煙に包まれている。

 ポンバル太郎にも、連日のようにサンマが入荷している。備長炭で焼く太郎のサンマは格別に香ばしく、脂ののった身は山廃純米酒との相性が抜群だった。
 今夜もテーブル席の3人の女性客、さらにカウンターの端に座るスーツの中年男が、立て続けに注文していた。
「贅沢言っちゃいけねえがよ。こう毎日、サンマばかりを見てっと、さすがに飽きちまうぜ」
 当のサンマを納めた火野銀平が、隣でサンマの刺身をつつく右近龍二にうんざりしている。その向こうでは竈で焼き上がったばかりのサンマを、純米吟醸とともに、太郎がジョージへ出していた。
「そうかなぁ。僕はまったく大丈夫ですよ。学生時代から、安くて美味しいサンマにはお世話になってますから。まぁ、築地でサンマの山に囲まれてる銀平さんの気持ちも分かりますけどね。それよりジョージ、ニューヨーカーって、サンマを食べるの?」
 龍二が訊くと、熱々のサンマに口をハフハフさせるジョージが箸を持つ手を横に振った。そして、あわてて冷えた純米酒を口に流し込み
「マンハッタンのチャイナタウンにはアジア系の市場があって、そこに売ってました。食べるのは、コリアンがほとんどですね。昔はイタリア系の人たちが好んで食べたのですけど、世代が変わって、今はほとんど食べないですよ。もちろん、ユダヤ系やアイルランド系もです。それに、これも食べないですね」
と冷蔵ケースの中を箸の先で指した。
 それも、火野屋が届けた富山産のヤリイカである。ほんのりと赤褐色の胴体に、目玉が生きているように黒く光っている。

「なんでぇ、ヤリイカじゃねえか。アメリカじゃ、イカを食わねえのかよ。シーフードピザとかパスタって、あんだろ? それに、寿司だって人気じゃねえかよ」
 気に食わない口調の銀平に、会話を耳にするテーブル席の女性客たちも頷いた。カウンター席の男は“ヤリイカ”の言葉に反応して、黒部の純米酒を飲む手を止めた。
 ふた口目のサンマをがっつくジョージの代わりに、龍二が答えた。
「シーフードピザとか、パスタのペスカトーレって、アジア系やイタリア系の人しか食べませんよ。寿司BARじゃ、ツナと呼ばれるマグロ、イエロータイルってハマチが人気で、他にはシェルの牡蠣、シュリンプの小エビとかです。イカ・タコ系は、食べる習慣がなかったからイマイチなんですよ」
 冷蔵ケースのヤリイカを見つめる面々に、太郎の声が聞こえた。
「確かに、イタリアやスペイン風も、アヒージョとかオリーブオイルやトマトソースを使った料理がほとんどで、生のイカって食べそうにないよなぁ。この富山湾のヤリイカなんて、最高に甘くって、うまいぜぇ」
 太郎がヤリイカを取り出して、光る身を広げると、ジョージがゴクリと唾を呑んだ。大きな音に、銀平と龍二が飽きれ顔を見せた。

「まったく、食い意地の張ったヤンキーだぜ。おめえは、ニューヨーカーじゃねえのかよ?」
「っていうか、ジョージの箸の使い方も、さまになってきましたよね」
 イジる二人を気にもせず、ジョージは鞄からメモを取り出し太郎へ訊いた。どうやら、富山のヤリイカに興味深々のようである。
「オウ! もはや、東京人とニューヨーカーのハーフですから。ところで太郎さん、ヤリイカは富山が名産地なのですか?」
 テーブル席の女性たちが好奇の目を向けて「あの人、ジャーナリストみたいよ」と囁いた。それを耳にしたカウンターの隅の男が、口を開いた。
「あのう……そうだったら、富山のヤリイカをもっとアメリカで宣伝してください。今、ニューヨークや西海岸じゃ和食がブームですが、輸出されるヤリイカは少ない。よろしくお願いします」
 立ち上がって頭を下げる律儀な男に、ジョージが三口目のサンマを喉に詰まらせた。
 銀平と龍二が顔を見合わせると、太郎が
「富山の方ですか? それで、黒部の純米酒を頼まれたんですね」
とヤリイカを手にして近づいた。

 男は立山信一と名乗り、活きのいいヤリイカに目じりをほころばせると、問わず語った。アメリカの和食店で使われるイカは、ほとんどがインドやアフリカ産の冷凍物で、日本から空輸されるヤリイカは高級店だけ。その市場を広げるために、自分は富山の漁協とアメリカの流通を結ぶビジネスを進めている。しかし、セレブにはイカを食わず嫌いな客が多く、手こずっているのだと嘆いた。
「なるほどねぇ。それに欧米じゃ、イカやタコってのは悪魔みてえに言われてたんだろ? だったら、根本的な問題じゃねえかよ。日本酒だって、30年かかってライスワインって認められて、ようやく飲まれてんだからよう。富山のヤリイカを売り込むなんてなぁ、至難の業だろ」
「何か、売り込むきっかけを作らなきゃ、いけませんよね。富山のヤリイカの美味しさだけじゃなく、そのイメージアップできる、何かを……」
 腕ぐむ銀平と龍二に、ジョージもペンを止めて唸った時、玄関の鳴子が軽やかに響いた。

 ジョージの横顔へ見惚れていたテーブル席の女性客が
「あっ! 雑誌に出てた日本酒ジャーナリストの高野あすかだ!」
と目を丸くした。あすかは、まんざらでもない顔で女性たちに会釈すると、カウンター席へ声を投げた。
「ヤリイカを釣る、富山湾の漁火ってどうかしら。あの幻想的な光景は、きっとファンタスティックな日本の魅力だと思うわ。ゆらゆら揺れる漁火をヴィジュアルにして、そこで獲れるヤリイカと富山の日本酒を口にする。アメリカ人が喜びそうな、アメイジングな日本酒になるんじゃない。BGMは演歌よ。つまり、日本の歌と一緒に売り込むのは、どう? 肴は炙ったイカでいい♪ って、あのフレーズみたいな富山のヤリイカの演歌を作るの。もちろん、英語版もあり! 現地の食品展示会やレストランショウでPRするには、もってこいじゃないかしら」
 即興的なアイデアだが、ジョージは鼻息を荒くして、またもやペンを走らせた。

 太郎があすかの素性を紹介すると、立山は直立して握手を求めた。
「できれば、高野さんのような方に、ヤリイカのイメージレディをやってもらえれば……和装の美女が、富山のヤリイカと地酒をPRする企画です」
 思いがけない提案に、テーブル席の女性たちが沸いた。
 龍二も頷きながら、銀平へぬる燗のお銚子を差し出した。
「あすかさんなら、強力な助っ人になりそうですねぇ」
「けっ! また遅ればせにやって来て、美味しいとこ、持って行きやがった!」
 ふて腐った言い草ながら、口端に喜びをこぼしている銀平に、ジョージがダジャレを投げた。
「イカは、英語でスケッド! あすかさんは、助っ人! これ、イカしてます!」
 全員ドン引きの店内に、太郎の声が追い打ちをかけた。
「ジョージは、日本のオヤジギャグにイカれちまってるな」
 客たちの開き直った笑い声が、活きのいいヤリイカを包んでいた。