Vol.18 井戸と徳利

ポンバル太郎 第一八話

 猛暑日と熱中症への注意がニュースで喚起された金曜の夕刻、薄暮に包まれる東京スカイツリーの彼方には、高い入道雲がいまだに湧き立っていた。

 ついさっきのゲリラ豪雨のせいで、ポンバル太郎の周辺は蒸し暑さに覆われている。フル回転するクーラーもいっこうに効かず、冷蔵ケースからカウンターに置かれる青い一升瓶や涼しげなレッテルが汗をかいたように結露していた。
「今夜は熱帯夜になりそうたい……ばってん、キュンと冷えた“夏越しの酒”にはピッタリね」

 独りごちてカウンター席に座るなり、手越マリは半年ほど熟成して旨味が深まった美山錦の純米吟醸を太郎に注文した。黄色のブラウスは雨に濡れていて、透けて見える豊満な胸元がテーブル席の若い男たちをどぎまぎさせた。

 それに気づいたマリは、冗談めかして
「お兄さんたち、こっちに来て一緒に飲まない?」

 と汗と雨で化粧落ちした熟女の顔を向けた。
途端に、男たちがゲンナリした面持ちで椅子にしおれると、太郎が一合枡に酒を注ぎながら失笑した。
「マリさん、お客さんたちが冷や汗かいてるぜ」
「ふんっ、酒も女も熟した方がうまかよ!」
酒はかなり冷えていたのか、口に含んだマリはこめかみを押さえながら、ブルーのアイシャドーが濃い目元をギュッとつむった。
「うわぁ~! ひと足お先の“冷やおろし”って、感じたい!」
一合の生原酒を一気に飲み干したマリに客たちが目を白黒させていると、耳慣れた声がカウンターへ飛んで来た。
「マリさんよ! 夏越しの酒ってのは、キンキンに冷やして飲むもんじゃねぇ。ほどほどの冷たさが、お江戸の頃からツウなんだよ」

 その自信ありげな銀平の口調にマリは受けて立とうじゃないのとばかり、赤味を帯びていく頬に片えくぼを浮かべた。
「ふ~ん、そうかい。ばってん、江戸時代には冷蔵庫ってなかったのに、どうやって冷やしたの? 氷や雪が手に入ったのは、徳川の将軍様だけって話しばい」
「マリさん、それで俺を引っかけたつもりかよ……井戸水だよ。酒を入れる徳利を井戸の中に吊り下げて、冷やしたんだ。今の冷蔵庫ほどじゃねえが、暑さをしのげる冷酒になった」

 ただし長屋の井戸は共有だったから、酒を冷やすなら、事前に住民へ断りを入れなければならなかった。しかも、むこう三軒と両隣の家には、その酒を味見と称して一杯ずつ提供しなきゃいけなかったと、銀平は付け加えた。
いつになく理路整然とした銀平のウンチクに客たちが頷くと、マリはつけ入る隙がないのか、顔をそむけた。
太郎が棚に飾っている古びた徳利を下ろして、ていねいに埃を拭いた。そして、客たちに見えるようカウンターの真ん中へ置いた。

 陶器の徳利には漢字の八が釉薬で大きく描かれ、往時の深川にあった酒屋名も記されている。
「この一升徳利は、平先生にもらった本物の通い徳利。お江戸の庶民が酒屋から借りていた徳利なんだ。つまり、この番号によって誰が借りてるのか判るし、大福帳にも売掛金を記録できるわけだ。だけど、酒を入れたらかなり重くなる。井戸に下ろしたり、引っ張り上げる時は、隣や近所に手伝ってもらったんじゃないか。だから、一杯ご馳走しなきゃならなかったんだろうな」

 太郎の理屈に、客たちは中腰になったり首を伸ばして、通い徳利をしげしげと見つめた。その面々の後ろからTシャツとジーンズ姿で銀髪を束ねた常連の平が現れると、小さなどよめきが起こった。
「長屋の名物は“井戸端会議”と言われるぐらいで、そこは主婦の溜り場だったわけです。ましてや、かかあ天下のお江戸ですから、旦那はなかなか井戸に近づけない。ってことは、勝手に酒を取り出せなかったわけですね。やはり、昔も主婦が旦那の酒の量に目を光らせていたんでしょうな」

 話しの流れを汲んだ平らしい名言に客たちが感心すると、若い男がつぶやいた。
「じゃあ、うちのカミさんみたいに、安い酒しか買わない主婦が多かったの? ってか、当時の酒屋にはどんな酒があったんですか?」

 その疑問に、ほかの客たちが相槌を打った時、間髪いれずに玄関から答えが返ってきた。
「米を全部磨いた酒は“諸白(もろはく)酒”で、今の吟醸酒に当たります。そして、麹米だけ磨いた片白(かたはく)、ほとんど米を磨かない“並み酒”、一番安かったのは濁り酒の“どぶろく”で、通称“どぶ”と呼ばれてました」

 客たちが振り向くと、短く散髪して男前の上がった右近龍二が立っていて、その後ろには高野あすかの顔が覗いている。二人は、玄関先で鉢合わせたらしい。
「しかも、昔の酒屋は原酒を売るのが基本だったの。だから、旦那の稼ぎが少ない家は、奥さんが酒屋の井戸水で原酒を薄めて買っていた。つまり5:5なら、半分は水。3:7なら、ほとんど水っぽい酒ね。それを“玉割り”って呼んでたの。うちの実家でも、明治の頃までやってたらしいわ。毎日のように原酒を飲める旦那さんは、やっぱり少なかったみたいね」

 一人また一人と数珠つなぎしながら深まっていく徳利酒の話しに、ポンバル太郎の一見客たちからは「う~む」とか「ほほう」だの、唸るような感嘆が巻き起こっていた。

 すると、年配のほろ酔い客がカウンターへ歩み寄り、通い徳利を手にすると銀平と肩を組み、快哉を叫んだ。
「いやぁ、ここはおもしろい店ですねぇ。次々に常連さんが集まって来て、酒談義が熱い!これこそ、現代の井戸端会議じゃないですか!」

 気分が良くなった銀平も
「ちげえねえや、旨い酒もいつだって冷えてるしな!」

 と、その客を自分の隣に招いてグラスに酒を注いだ。

 太郎は店内を見つめながら、ほんの数分間で垣根がなくなった客同士のコミュニケーションに驚きながら、常連客たちの人となりをあらためて見直した。
「どことなく……似てきたかな」

 そうつぶやいた太郎の脳裡には、マチコの店先に灯る赤い提灯が揺れていた。