リオデジャネイロオリンピックの熱気が冷めたと思いきや、いよいよ次回は東京大会とばかり都内ではPR戦略が始まっている。建設ラッシュの国立競技場周辺には、アスリートたちの巨大なビルボードが吊るされ、外国人観光客たちはスマホ撮影に余念がない。
その勢いは、ポンバル太郎にも押し寄せている。競技場の建築現場で働く男たちが、日ごと客席に増えていた。彼らの宿舎は、ポンバル太郎の町にあるホテルだ。
「おい、ボンボン。イキのええ、うまい魚を、ドンドン持ってきいや!」
夏休み最後の手伝いをしている剣に、若い髭面の土木作業員が火照った顔でまくしたてた。中之島哲男と似た言い回しに、そのテーブル席の一団は大阪からやって来ていると、カウンター席でぬる燗の純米酒を飲んでいる平 仁兵衛は読んだ。
「大阪の景気は、今ひとつ良くないですねぇ。東京へ出稼ぎする現場の方が、増えているそうですよ」
男たちを一瞥する平に「飲食業界も、そうらしいです」と厨房の太郎が相槌を打ったが、カウンターの真ん中で冷やおろしを口にする火野銀平は、隣に座る右近龍二へしかめっ面で耳打ちした。
「だけどよ、アベノミクスで景気がいいのは、ゼネコンだけじぇねえか。こちとら、オコボレにも与ってねえぜ。それによう、近頃、どうも店の中が汗臭くっていけねえ」
ガテン系の男たちは、背中に抜けた汗のシミから酸っぱい匂いを漂わせていた。だが、自分の加齢臭には疎い銀平に、龍二は純米吟醸を飲みながら苦笑いを浮かべた。
「銀平さん、ボヤかない! ボヤかない! 火野屋の魚介類が、あの人たちのお蔭で飛ぶように売れてるじゃないですか。それに、銀平さんのオヤジ臭さだって、負けてないじゃん」
「うっ! 痛ぇとこ、突きやがる……それにしても、よく飲んで、食う連中だな」
と銀平がつぶやくと、男たちの旺盛な食欲に龍二も感心した。剣も、引っ切りなしに仕上がった料理を配っている。
「おい、関西の魚って、あれへんのか?」
一団のリーダーらしき壮年の男が、食材の冷蔵ケースへ顎を振って剣に訊いた。頑丈そうな体躯から伸びた太い腕が、冷酒グラスをテーブルへ乱暴に置いた。
男は空きっ腹に大阪の無濾過生原酒を二杯流し込み、戻りカツオのズケ、イサキのごま味噌焼きを注文した。だが、料理の味付けが気に入らないのか、口へ運んでは首を横に振っていた。
「こっちへ来て三ヶ月になるけど、東京の味付けちゅうのは、やっぱり口に合わん。あっさりした白身魚の塩焼きとか、でけへんのか」
額にひきつった傷痕を残す男の風貌に、剣は思わず口ごもった。
弟分らしき髭男やほかの面々が「ほんまやで! ダシが濃いねん」と声高に同調すれば、剣は顔色も青ざめていった。
「おい、ボンボン。何とか言うてみい」とせせら笑う髭男に、銀平のこめかみが青い筋を動かした。
「あっ、銀平さん、ダメっすよ」
龍二が制するのも聞かず、銀平は一団の後ろに立った。両の耳たぶを真っ赤に染めているのは、怒りのスイッチが入ったサインである。厨房からは、すでに遅かりしと察知した太郎のため息が洩れた。
「おう、兄さんたち。関西の魚なら、今夜は太刀魚が入えってるよ。武庫川の一文字の沖で獲れた、正真正銘の浪花産でぇ。それと、あんた、声がでけえよ。ここは工事現場じゃねえんだからよ。もっと小せぇ声でも、話しはできるだろ」
鼻息の荒い銀平が、剣をいたぶった髭男にやり返した。
「なんじゃい、ワレ! わいの声がでかいのは、生まれつきや。ほっとけ、ボケ!」
売り言葉に、買い言葉である。
剣が固唾を呑んだ途端、リーダーの男の右腕が髭男を羽交い絞めにした。
「い、痛たた。輝の兄ぃ、何をしまんねん!」
「辰夫、黙っとれ……威勢のええ兄ちゃん、その太刀魚を食わしてもらえるか?」
輝と呼ばれた男は銀平が“一文字の沖”と口にした時、険しかった表情を崩していた。一触即発の状況下、思いがけない輝の頼みに銀平も肩の力をゆるめた。
「いいともよ。だけど、注文は、この剣が聞き役でよ。俺は、この店に魚を納めてるだけだ」
銀平がTシャツの胸にあるロゴマークを見せると、陽に焼けた輝の表情がほころんだ。
「築地魚卸 火野屋……江戸前の魚屋はんか。それが、なんで一文字沖の太刀魚を知ってんねん。物好きな奴やな」
皮肉めいた口ぶりではなく、輝は嬉しそうに話しを続けた。
一文字とは、関西で沖にある防波堤のことを言う。関東では“沖堤”と呼び、一の字の形をしている。特に、沖にある一文字は潮通しがよいので、釣果が上がり、渡船で通うポイントだ。武庫川の一文字は、神戸と大阪の中間に位置する一級河川の河口沖に位置し、長さが4.5km、日本最長の防波堤なのだと語った。
「関西の釣り好きなら、いっぺんは行ってる名所や。そこで獲れた魚で、ガキの頃の俺は育った……孤児だった俺の最高のご馳走が、一文字沖の太刀魚やった」
遠い目をする輝の鼻先を、香ばしい匂いがくすぐった。銀平と輝のやり取りに安心した太郎は、すぐさま太刀魚へ串を打っていた。
話しに聞き入っていた男たちが、驚いて口を開いた。
「えっ! 輝の兄ぃって、孤児やったんですの?」
「し、知らんかったわ。もう10年近く、一緒に仕事してるのに」
いかめしい容貌の輝が、恥ずかしげに頭を掻いた。しかし、どこかサバサバした面持ちだった。そのタイミングへ合わせるかのように、剣が太刀魚の塩焼きを輝の前へ置いた。
立ち上る湯気と匂いに誘われて、輝は吐露した。
「……言うてしもて、スッキリした。今まで、ずっと胸につかえてたんや。お前らから兄ぃと慕われ、信じてもろて、どんな現場も一緒に頑張ってきたのに、俺は自分を隠したままやった。すまんかったな。実は……この額の傷も、お前らが思い込んでるような刃物で喧嘩した傷やないねん。中学の頃、初めて一文字で太刀魚を釣った時、下手をこいて太刀魚用のごっつい鉤が刺さってもうてな。それを無理やり抜いた傷や」
あっけに取られていた辰夫が、髭をピクピク動かして大笑いした。
「どん臭い奴っちゃなぁ。なんか兄ぃも、わいらと変わりませんやんか。しょうもなぁ!」
辰夫が茶化すと、静まり返っていた一団が爆笑した。
男たちを見つめていた銀平が、剣につぶやいた。
「……あいつ、いい奴だな。剣、太刀魚に合う灘の純米酒を、あの連中に出してくれ。俺の奢りだ」
「あっ、そうか! 西宮って、灘のど真ん中だもんね……今夜の銀平さん、男前だよ!」
剣が嬉しそうに、銀平の脇腹を肘打ちした。
カウンター席で、ニンマリとする龍二から酌を受ける平が言った。
「思い出の味を口にすると、誰だって、素直になるもんですよ」
テーブル席から追加注文される太刀魚の塩焼きに、太郎の串を打つ手も踊っていた。