Vol.176 おいなりさん

ポンバル太郎 第一七六話

 お盆休みのUターンがピークを迎えた土曜日、東京駅は夜まで混雑していた。改札を出た高野あすかはマンションへ直帰せず、八重洲口にひしめくタクシーでポンバル太郎へ向かった。降り際の車窓に気づけば、もう日暮れが早くなっていた。
「すぐに秋か……酒造りが始まるな」
 独りごちたあすかに、運転手がバックミラーの中で言った。
「お客さん、お土産を忘れないようにね」
 あすかの横には、相馬寿司と筆書きされた紙袋が置いてある。むろん、ポンバル太郎への土産を忘れるはずはない。中身は剣がリクエストした、海鮮巻きといなり寿司である。

「剣君! お待たせ! ガッツリ食べてねぇ」
 トランクを引きながら玄関の鳴子を響かせたあすかに、カウンター席に並ぶ火野銀平と中之島哲男が振り返った。その横で、剣がふくらんだ頬を動かしている。もちろん、お盆で、店内に客はいない。
「あら、中之島の師匠!? お盆に東京なんて、珍しいですね?」
「おお、馴染みにしてる老舗豆腐屋の主人の新盆があってなぁ。大阪へ戻るんは、今日は混んでるさかいに、明日にしたんや。どや、あすかちゃんも食べへんか?」
 中之島が差し出した折り箱には、三角のいなり寿司が詰まっていた。5つほど抜けているのは、剣だけでなく火野銀平も頬張っているせいである。
「あらっ、かぶっちゃった! 私も、相馬のおいなりさんをお土産にしちゃったの……でも、中之島さんのいなり寿司って、三角なんですか?」
 あすかは自分の土産を取り出しながら、珍しげに三角のいなり寿司を覗き込んだ。杉の折り箱の爽やかな香りが、鼻先をくすぐった。

「さっき、太郎ちゃんに厨房を借りて、豆腐屋からもろたお揚げさんを使うて、わしが作ったんや。そう言うたら、関東のいなり寿司は四角やな。餅も四角いしな」
 中之島が老眼鏡をずらしてあすかの角ばったいなり寿司を凝視すると、横から剣の手が伸びた。
「関東の四角は米俵、関西の三角はキツネの耳なんだってさ。NHKのクイズ番組で、やってたよ」
 あすかのいなり寿司にかぶりついた剣が、具の中身を指でさぐると
「この野郎。行儀の悪いこと、するんじゃねえ!」
と太郎が叱った。中之島のいなり寿司は、高野豆腐や椎茸、こんにゃくに人参など具だくさんだが、あすかの物は黒ゴマに刻んだ干ぴょうだけで、至ってシンプルだった。

「まあまあ、太郎さん。それも巾着袋を開けるみてえなもんで、楽しみじゃねえかよ。俺もガキの頃は、いろんな家のいなり寿司の中身が気になってよう。それによう、昔の江戸っ子には“伊勢屋、いなりに、犬のくそ”って言葉があったそうだ。江戸の町には伊勢屋って名の店がいっぱいあって、犬っころが多かったから落っこちてる糞もいっぱいでよ。いなり寿司も、それぐれ江戸の町で食われてたってことだろ」
 自慢げな銀平の手が四角いいなり寿司に伸びると、あすかがシッペした。口を尖らせる銀平の胸を、あすかは指先でつついた。太郎と平も、苦笑いを浮かべている。
「まったく、いいかげんなウンチクね。そうじゃないの! 稲荷神社が、江戸の町にはいっぱいあったの! 裏長屋が多くて、その敷地に必ず小さな稲荷神社があったのよ。時代劇に、よく出てるでしょ」
 あすかは銀平の隣に座ると、福島県の無濾過生原酒を太郎へ注文した。そして、相馬のいなり寿司と一緒に銀平へ勧めながら、甘い味つけの相馬のいなり寿司にはこれが合うのだと付け足した。

 機嫌を直した銀平が、いなり寿司をつまみながら言った。
「だがよ、なんでそんなに稲荷神社ばかり作ったんでぇ? 願い事が多くても、長屋ごとになんて必要ねえだろう」
 あすかはその声に同調し、太郎も答えられなかった。中之島が口を開きかけると、いなり寿司を呑み込んだ剣が答えた。
「稲荷神社のキツネって、ネズミを退治する神様なんだよ。昔の江戸は、長屋にネズミがいっぱいいてさ。米櫃をかじられて、中のお米も食べられちゃった。だから、稲荷神社はネズミ封じの願掛けだったの」
 喜々として話し出す剣に、銀平がみるみる青ざめた。
「げ、げげ! 俺はネズミが大嫌いなんでぇ! 昔は築地市場にも、いっぱい出やがってよう」
 鳥肌を立てる銀平をよそに、あすかは気を取り直してメモを走らせている。さらに続く剣の話に、中之島も真顔で聞き入った。

 稲荷神社はそもそも、稲成神社って書いた。つまり米ができる田んぼの近くにネズミを捕ってくれるキツネを祀り、米蔵をネズミから守ろうとした。それが、いつしか町中にも広がって、庶民の暮らしを守る神様になった。ちなみに商売繁盛の招き猫は、ネズミを捕ってくれる狐が町にはいないから、それに替わって猫を祀ったことから生まれたと剣は解説した。
「ほぉ、こりゃ、すばらしい民俗学やな。わし、いっこも知らんかった。恥ずかしいな。穴があったら、入りたいわ」
 中之島が太郎を見つめ、剣の成長を目尻のしわで喜んだ。太郎が無言でお辞儀をした時、あすかが声を上げた。
「あっ! そうか! 実家の蔵元に小さな稲荷神社があったのは、酒米を守るためだったのか」
 今更のように気づくあすかへ、銀平がここぞとばかりにツッコんだ。
「ダメだねぇ、蔵元なのに、不勉強じゃねえかよ」
 悔しげに歯がみするあすかに、銀平がまた、いなり寿司を口へ放り込んだ。

 その時、中之島が留飲を下げる銀平へ小声で耳打ちした。
「ところでなぁ、狐は油揚げが好きやから、いなり寿司が生まれた。けどな、ほんまは、油揚げやなかったそうや」
「へっ? じゃあ、何が好きだったんで?」
「ネズミを油で揚げたのが好きやった。だけど、そんなもん、江戸の町では疫病の元や。お供えするのは御法度や。それで、今の油揚げになったそうや」
 銀平の肌に、粟が立った。震え出した銀平の前で、あすかが四角いいなり寿司を手にした。
「そう言えば、この四角いのって、ネズミさんに似てない?」
「ぎぃ、ぎぇ~!」
 店を飛び出して行く銀平を、中之島たちの笑い声が見送っていた。