梅雨前線が一時南下した日、東京のアスファルトは猛烈な陽射しに焼かれた。その余熱が夜になってもよどみ、新宿や渋谷は蒸し暑さに覆われている。
うだるような駅前通りから逃げて来た右近龍二は、ポンバル太郎へ着くやいなや、冷えた純米大吟醸の無濾過生原酒をガブ飲みし、強い炭酸ガスにむせ返った。シャンパンに似た活性酒だが、19度のアルコール度数もインパクトがあった。
「ゲヘッ! ゴホッ! す、すみません、平先生」
鼻から酒を垂らす龍二の背中を隣からさする平 仁兵衛が
「龍二君でも、飲み方をしくじることがあるんですねぇ。まだまだ、若いですねぇ」
と、ピッチャーのやわらぎ水を勧めた。
「面目ないです。ひどく喉が渇いてたもので……まずはひと口、ちゃんと利かなきゃダメですよね。まだまだ、僕は素人だな」
反省する龍二は、先にカウンター席へ座っていた独酌の中年男にも頭を下げた。銀平に似た剃髪スタイルだが、小ぎれいなグレーのジャケットと黒いジーンズがよけいスマートに見えた。
「気にしなさんな……あんた、右近龍二さんだろ? さすがにここへ来た途端、いい酒と肴を選んだな。銀平が一目置いてるだけあるぜ」
肴に火野屋自慢のマグロの中落ちを頼んだ龍二へ男が答えると、平は目じりをほころばせて
「やはり、築地の方でしたか。なんとなく、銀平さんと同じ雰囲気を感じましたので」
と男のいなせな口調を得心した。
龍二も頷いた時、玄関扉の鳴子がうるさいほど暴れて、荒い物言いが飛んで来た。
「源三さん。どうして、あんたがいるんだよ!? ここは俺のお得意先だ……あんたみてえな、築地を捨てる奴に来て欲しかねえんだよ」
喧嘩腰の銀平に、店内の客の会話が途切れた。源三と呼ばれた男は、動じることなく手元の冷酒グラスを口にした。選んでいる酒は、新潟の淡麗な純米酒である。
銀平の物言いに、源三は
「ちょいと、お前に渡してぇ物があった。それで、今夜もここだと思ってよ」
とサラリと受け答えをした。
「銀平、魚源さんは、おめえの兄貴分じゃねえか。いくら築地の移転で揉めた仲でも、くだらねえアヤを付けてんじゃねえ!」
厨房から顔を突き出した太郎が叱ると、銀平だけでなく、店内の客席に緊張が走った。
江東区の豊洲へ築地市場が変わるまで、あと半年足らず。常連だけでなく、銀平を見知った客は、誰もが移転のことを話題にしなかった。銀平が築地を愛するがゆえの怒りは、ポンバル太郎に来る客は嫌がおうにも耳に入っていた。
江戸時代の初期に生まれた日本橋魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災を機に現在の築地へ移っている。銀平の営む火野屋はこれに乗っかった魚匠で、祖父の火野銀次郎が若かりし頃に再興した。そして源三の祖父・魚野源太郎が同じように立て直した魚源も、火野屋と同じく江戸時代末期から続く魚匠で、築地の人気を二分する老舗だった。
ただ、当時の魚野源太郎は資金繰りに苦しく、それを見かねた火野銀次郎が義兄弟の契りを交わした上で相応の金を融通したことは、孫の銀平と源三も知っている。
しかし今回、魚源は豊洲に移転せず、千葉の勝浦漁港近くで新たな水産加工会社を設けた。ここ10年余り、ロサンゼルスやニューヨークの和食レストランへ成田経由で空輸する新鮮な魚介類で儲ける魚源は、さらにヨーロッパやアジアへの販売も手掛ける計画である。
兄貴分と慕っていた源三の決断に、ここ数か月の銀平は裏切られたと愚痴ったが、魚源にしてみれば生き残りを賭けた最後の手段だった。
「銀平、そうカッカするねぇ……これも世の流れだ。おめえは地元客が大事だろうが、今の俺には海外の客が御贔屓筋だ。けどよう、その反面、俺は築地の連中のやっかみや中傷に堪えてきた。その辛抱を教えてくれたのが、これだよ」
源三が帆布製の袋から取り出したのは、鈎爪が付いた1尺半(45㎝)ほどの木の棒だった。
市場の魚匠なら誰もが使う“手鈎(てかぎ)”で、ひょいと魚を持ち上げ鮮度を見分ける道具である。鈎先を魚のエラ蓋にひっかけて、中のエラの色で鮮度を確かめる。さらには、胸びれまわりを取っ手でポンと叩くと、身にピタッと付いていた胸びれがすっと立ち上がる。それも、新鮮さの見極め方である。
源三の手鈎の取っ手は手垢のせいで飴色に光り、使い込んだ年月を物語っていた。
「な、何でぇ、たかが手鈎じゃねえかよ。そんな物ぁ、築地の店先にいつも転がってんじゃねえか」
ふて腐れる銀平だったが、言葉とは対照的に視線は落ち着かない。
「この手鈎、聞いたことがあるだろ……そうだよ、これは関東大震災の後、火野銀次郎が一切合切を失った魚野源太郎にくれた手鈎。うちの祖父さんの宝物だ。あの時、助けてくれたおめえの祖父さんに、魚源は生涯、足を向けられねえ。火野屋と一緒に、築地を盛り上げていかなきゃならねえといつも言ってた。そりゃ、俺も重々承知してる……だけどよ、銀平。今回の勝浦移転で成功すりゃ、俺は火野屋に恩返しができると思ってんだよ。この手鈎は、築地の魂を受け継ぐお前に返そうと思ってよ……火野銀次郎が刻んだ、この文字と一緒にな」
源三がカウンターへ置いた手鈎に、龍二や平の視線が集まった。太郎も厨房から現れると、店内の客たち全員が固唾を飲んで手鈎を見つめた。
「能忍(のうにん)……よく、忍ぶですか。なるほどねぇ、明治の男の気骨ですねえ」
彫られた文字へ感心する平の声に、誰もが黙って頷いた。
「て、てやんでぃ! 今さら何十年も前にやっちまった物を返されても、こちとら迷惑でぇ。そいつも、勝浦へ持って行っちまえよ」
歯がゆげな銀平の声が手鈎を突き返した時、カタリと玄関の扉が小さな音を立てた。
ぬるい夜風に銀平が振り返ると、源三はとっさに立ち上がって、深くお辞儀をした。
「これは、葵屋の親方じゃねえですか」
太郎の声に、築地市場の元締めである葵 伝兵衛が笑っていた。白髪頭に粋な着流し姿が、客たちのため息を誘った。
「おう! 悪いが、話は聞いたぜ。銀平。しけたツラしてんじゃねえぞ! 築地から豊洲に変わろうが、名前は“築地魚河岸(つきじうおがし)”てえんだからよう! 今までより、なおさら江戸っ子らしいじゃねえか。それと源三。おめえは勝浦でしっかりと、先祖の心意気を守るんだぜ。その手鈎、貸してみろい」
火野銀次郎の手鈎は、築地じゃ、知る人ぞ知る伝説になっている。自分もようやく、こいつにお目にかかれたと語る伝兵衛に、店内がしんと静まった。
「うちの葵屋も祖父さんの代に関東大震災、親父の代に東京大空襲で丸焼けでよう。たが、火野銀次郎や魚野源太郎と一致協力したおかげで、今があるんでぃ。手鈎一本、がれきの焼け野原で魚を売り始めたのよ。そいつを忘れちゃならねえ。あだや、おろそかに扱うんじゃねえよ」
袂から矢立を取り出した伝兵衛は手鈎を受け取ると、“能忍”と彫られた取っ手の反対側に“秘すれば花”と記した。
平に変わって、龍二がつぶやいた。
「日本人らしく、黙って耐えることに花があるってことですね。世阿弥ですか……深いなぁ。でも、堪え性のない銀平さんには、ちょっと難しいかもなぁ」
「な、何だとう! こう見えても、俺は築地じゃ、我慢強い方なんでぇ!」
途端に、目くじらを立てる銀平の頬を伝兵衛がつねった。
「まったくよう。おめえは、この銀次郎の手鈎を持つにゃ百年早ぇぜ。まだまだ、わしは仕込み甲斐があらぁ。豊洲に移っても、しごいてやるぜ」
顔をゆがめる銀平の禿頭を、伝兵衛が手鈎の柄で嬉しそうに叩いた。