Vol.140 ごっこ汁

ポンバル太郎 第一四〇話

 北日本を覆った冬の嵐が、宵の東京にささめ雪を降らせた。銀座4丁目交差点のネオンボードは、明朝の道路凍結を注意している。

 ポンバル太郎の通りもうっすらと白く染まり、革靴を履いたサラリーマンは足元がおぼつかない。付き合い酒を早めに切り上げないと帰りの電車も危ういかと、男たちは粉雪を落とす夜空を恨めし気に見上げていた。

 そんな面々を尻目に、長靴姿の火野銀平がトロ箱を手にして、ポンバル太郎の扉を開けた。大きな鳴子の音に、カウンター席の平 仁兵衛は上機嫌な銀平を背中で察した。

 「おまたせぇ! 太郎さん。どうにか手にへえったぜぇ、ごっこちゃんがよ!」
 意気揚々と銀平がトロ箱をカウンターへ置くと、意味不明な“ごっこちゃん”にテーブル席の客たちが視線を向けた。

 銀平が聞こえよがしに言ったのを、平と並ぶ右近龍二も分っていた。だが、“ごっこちゃん”の言葉はチンプンカンプンなのか、小首を傾げたままだった。

 厨房から現れた太郎はいつになく興味津々の面持ちで、さっきまで丁寧に砥いでいた出刃包丁を光らせた。
「おう、待ってたぜ。どうにかして今夜はそいつを手に入れて欲しいと、中之島の師匠から頼まれてよ。ごっこ好きな人を、連れて来るらしい……実は俺、初めて使うんだよ」
「だろうなぁ。こんなグロテスクな奴、北海道の郷土料理店でしか使わねえよ。築地にも入りにくい。だけどよ、昔からブサイクな魚ほど、食えば旨いって言うからなぁ」

 思わせぶりな銀平の返事に、テーブルの客たちが腰を浮かせた。それにニンマリする銀平の右手が、トロ箱から黒い塊を取り出した。

 デップリと肥ったフグに似た魚が、粘っこい光を帯びていた。腹回りのまだら模様に、龍二が顔をしかめた。
「げっ! そ、それって食べられるんですか? ちょっと、ヤバくないすか?」

 平も魚の見てくれの悪さに、ぬる燗の盃を止めたまま茫然と見つめている。むろん、テーブル席の客は、中腰のままアングリとしていた。

 全員の表情に太郎が吹き出した時、扉の鳴子の音とともに、しゃがれた声が響いた。
「まあ、いっぺん食うてみたらええ! その布袋魚(ほていうお)は、見かけと裏腹で美味しい。DHAやコラーゲンもたっぷりや!」

 赤いカーディガン姿の中之島哲男が、突き出たメタボ腹を揺らしていた。
 まるで布袋様のような姿に客たちは苦笑いしたが、次の瞬間、中之島が連れている男にざわついた。

「お、おい……あれって、演歌歌手の糸井ひろしじゃねえか?」
「確かに、去年の夏、若年性の認知症で引退だって聞いたけどよ」
 囁く客席に、中之島が「引退は、取り消しや」と不敵な笑みを投げて、糸井をカウンター席へいざなった。

 頭だけでなく眉毛にも白い物が混じる糸井は、恐々な腰つきで隅へ座った。やつれた横顔は50歳半ばに見えるが、実際には38歳で、2年前までイケメンな演歌歌手としてブレイクした男だった。

 太郎は何かに気づいた顔で厨房へ入ると、ごっこをブツ切りにする出刃包丁の音を響かせ始めた。

 わけありげな糸井を中之島が席へ落ち着かせると、客席が静まった。重苦しい雰囲気が漂う中、糸井を斟酌する平が口を開いた。
「糸井ひろしさんは、小樽に近いオタモイの出身でしたねぇ。あなたが唄う石狩の演歌、地酒とニシンが似合いました。それにしても、中之島さんは顔が広いですねぇ」

 無表情な糸井に代わって、中之島が答えた。
「かつて、わしは糸井さんに救われたんや。17年前、小樽のキャバレーで聴いた “オタモイ酒”。まだ、この人はデビュー前やった。当時のわしは、デフレスパイラルで下手を打って、株で大損した。世間からアホな料理人とけなされ、ヤケクソになって、北海道へ行方をくらまそうと思うたんや。けど、寒さも景気も厳しい小樽で生き抜いてる人たちの哀愁を知って、都会の大阪でへこたれそうになってた自分が恥ずかしいなった」

 小樽のキャバレーで酔いつぶれた自分に、ステージを終えた糸井が近づき、飲み方を諌めたと中之島は語った。

 場末の歌手のくせに何様のつもりだとテーブルを叩くと、糸井の白い指が中之島の拳を開いた。
「料理人の手が、痛いって泣いてますよ。それに本当に美味しい料理に、見栄やプライドは必要ないですよ」

 中之島の素性を糸井は手つきで見抜き、荒れている理由までお見通しだった。見透かされた中之島は糸井の魔訶不思議な力に迷いが醒め、翌日、食事へ誘った。それならばと、糸井が連れたオタモイ近くの居酒屋で、ごっこ汁を初めて口にしたのだった。
「あの頃の糸井さんと同じように、何とも得体の知れん魚だったが、食べてみたら仰天や。プルップルの食感に、淡白な白身。それに合う、小樽のスッキリとした地酒。わしの腹の中のわだかまりが、ごっこ汁と地酒に流されてしもた」

 遠い目で話す中之島が、その視線を糸井に向けた。糸井は、目の前に置かれた小樽の酒を見つめたまま、独り言をつぶやいていた。
 まだ若年性認知症は治っていないと、誰もが思った。

「てこたぁ、ごっこ汁を食べれば、糸井さんの記憶が甦るかも知れねえと中之島の師匠は、踏んでるわけですかい。そいつぁ、ちょいとばかり無理があるんじゃねえですか」
 銀平が、率直に意見した。客たちは口を閉ざしているが、その内心、頷いていた。

「ああ、そう簡単にはいかんわ。けど、わしと糸井さんをつないだのは、ごっこ汁や……記憶が戻れば、わしのことだけやなしに、自分の過去も思い出すんやないやろか。そして、オタモイ酒の歌詞もなぁ」
 中之島は、糸井をいたわるように冷酒グラスへ酒を注いだが、小さく会釈するだけで口をつけようとしない。

「やっぱり、難しいな」と龍二がつぶいた時、ガタンと椅子を鳴らして糸井が立ち上がった。
「ご、ごっこの卵の匂いだぁ! いいべ! この匂い! オタモイのごっこ汁だべぇ」

 表情が紅潮していく糸井はカウンターの向こうへ身を乗り出し、臆面もなく鼻先をひくつかせた。厨房から流れる匂いには、焦がし味噌の匂いが強かった。

「おお! わしも思い出した! 小樽でもオタモイのごっこ汁は、雌の卵を一度味噌で炒めてから鍋に入れる。その香ばしさが、昆布のダシにしみてうまいんや。けど、太郎ちゃんは何で、それを知ってたんや?」
 中之島の喜びようは、語気からも感じられた。厨房に響く太郎の声も、嬉しそうに弾んでいた。

「実は、亡くなったハル子は糸井さんの唄った“オタモイ酒”が大好きでした。よく料理の仕込みをしながら、ここで口ずさんでましたよ……あの歌詞に、オタモイのごっこ汁の作り方があるじゃないですか」
はっと気づいた中之島の耳に、隣りで唄い出した糸井の声が聴こえた。

 ♪ しばれる怒涛に身を裂きながら、俺たちゃヤン衆、網を引く。
 冷えた体にゃ、ごっこ汁。かかあが、番屋で待っている。
 ごっこの卵は味噌で煎れ、オタモイ酒は燗で煮ろ。
 おいらの命のご馳走さ。

 聞き覚えのある声音に、客たちはウットリと耳を傾けた。それはまぎれもなく、演歌歌手・糸井ひろしの声だった。誰ともなく、拍手が沸き起こった。

 歌い終えた糸井の前に、太郎はごっこ汁の椀を置いた。濃厚な味噌とぶ厚いゼラチン質の身に、糸井はむしゃぶりついた。スター歌手のプライドをかなぐり捨てたような食べっぷりに、平と龍二が笑顔を見合わせた。

「……中之島さん、ありがとうございます。今日、あなたが介護施設にいらしてくれた時は半信半疑でしたが、今、ハッキリと思い出しました。それに僕の歌もね。太郎さん、私がしっかり記憶を取り戻したら、またごっこ汁を食べに来てもいいですか?」
 太郎へ訊ねる糸井は、少年のように口元へごっこの卵をくっつけていた。

 目尻をほころばせる太郎より先に、銀平が声を高くした。
「あたぼうよぉ! これからは俺が、糸井さんを施設へお迎えに行きますぜ! 中之島の師匠、いいでしょう?」

 今しがたの意見をひるがえす銀平を、中之島と太郎がたしなめた。
「ゲンキンな奴やなぁ。さっきまで難しいとか何とか、言うてたくせに」
「この野郎。おめえ、ごっこがいい値段だから儲かると思ってんだろう」
「えっ! い、いやぁ、俺も初めて仕入れたんだけどよぉ。けっこう美味しいんだよな。味も儲けもさぁ」
 図星を突かれた銀平が周囲の視線に言いよどむと、糸井が顔色を明るくして言った。
「大丈夫ですよ、太郎さん。オタモイにいる私の親友が漁師の網元ですから、いつでも直送で安く仕入れできますよ」
「ほう、そこまで記憶が戻ったか! 残念やったなぁ、銀平ちゃん。けど、糸井さんの送迎は頼むでぇ」
 ごっこ汁を手にする中之島が、布袋腹を揺らせて笑った。
「そ、そんなぁ。中之島の師匠、さっきの言葉は忘れて下さいよぉ」
 ボヤく銀平の困り顔を、ごっこ汁の香ばしい匂いが包んでいた。