都内のデパートが、ビヤガーデンの集客を競っている。年々、減りつつある客足に、時間と金に余裕があるシルバー世代を取り込もうと、孫たちが喜びそうな縁日の露店コーナーや昭和を髣髴とさせる歌謡ステージを用意していた。
ポンバル太郎でも高野あすかの発案で店先に風鈴を吊るし、テーブル代わりの酒樽と椅子を並べ、生原酒のロックやカクテルを売り出した。
シェーカーを振る急ごしらえのバーテンダーは、記者のジョージである。
青い目をしたアメリカ人が作る日本酒カクテルは、通りを行く女性の目を引いた。ガラス玉の風鈴の音色も耳を誘い、キンキンに冷えた一杯で客たちの汗は引いた。
樽テーブルで駆けつけ二杯を飲み干し、たちまち酔っぱらった火野銀平はふらつきながら店内のカウンター席へ移った。築地で汗をしとどにかいた分、酔いが回るのは早い。
「おやおや、よほど表の席は居心地がいいみたいですねぇ。じゃあ、私も少し涼んできますかねぇ」
平がぬる燗のお銚子と盃を手にした時、玄関の格子戸が開いて、ジョージと若い男が入って来た。三十前後とおぼしき男は、江戸小紋の作務衣が似合っていた。足元の雪駄は、上等な鹿革の鼻緒である。
「太郎さん、風鈴のことを訊きたいそうです。この人、江戸風鈴の職人です」
ジョージの言葉が店内の視線を集めた。男は一瞬恥じらい、太郎へ深いお辞儀を返した。
やぶ睨みする銀平の隣で、平が男の顔をまじまじと見つめていた。
「初めまして。深川冬木町で江戸風鈴を作っている本多 甚太郎と申します。こちらの表に吊っている風鈴は、うちで作った風鈴じゃないかと思いまして……もし私の祖父の遺作なら、買い戻させて頂きたいのです」
本多の不躾な物言いに、酔った銀平が反応した。上気して、剃った頭は赤くなっている。
「おう、ここは居酒屋だぜ。酒や肴も頼まずにたぁ、どういう了見でぇ」
鼻息が荒い銀平に、本多の目が泳いだ。生真面目そうな面差しは、老舗のお坊ちゃまらしい人となりがにじみ出ていた。
太郎は、凄む銀平の襟首を引っ張り
「まあ、とにかくこっちへ。実は、あの風鈴を出したのは五年ぶりでね。亡くなった家内の勿忘草だから、戸棚の隅に引っ込めたままだった。あの風鈴は家内が骨董市で手に入れたんだが、どこの物かは聞かずじまいでね」
とカウンターの隅へ本多をうながした。浮かせていた腰を元に戻した平が、なおさら本多を凝視した。本多は食い入るような視線を受け流して、問わず語った。
「私の家は江戸時代から続く瀬戸物屋ですが、六代目の祖父の頃にガラス玉の風鈴を手がけ“江戸風鈴”の商標を取っています。でも、近頃は外国製の安いまがい物が増え、職人も減ってしまい、祖父の風鈴の音ではなくなったと言われています。手本となる在庫が皆無でして、父は手をこまねいてばかり。それで、都内を歩きながら祖父の風鈴を探しています」
本多は、江戸風鈴の話しをそのまま続けた。
ガラスで作った風鈴は江戸時代にはビードロやギヤマンと呼ばれ、庶民には手に入らない高嶺の花だった。大正時代にガラス工芸の技術がようやく広まり、昭和に入ってから安価な物が現れた。つまり時代劇の風鈴屋がガラスの江戸風鈴を売っているのは、まちがいなのだ。
かぼそい声の本多に、客たちの反応はさまざまだった。
そんな古臭いアナログ志向でどうするんだと、鼻白む若い客。職人らしくて、今どき珍しい若者だと感心する年配者。だが、その誰もが江戸風鈴とは何かを知らない。
太郎が戸棚から取り出した風鈴の箱をカウンターに置くと、本多の息とまばたきが止まった。古びた木箱には「本甚(ほんじん)」の焼き印があった。
純米酒の盃を飲み干した平が、おもむろに口を開いた。
「本多甚兵衛商店……通称“本甚”ですね。私は三十年前に、あなたのお祖父様に陶器の仕事でお目にかかったことがあります。深川冬木町の老舗の居酒屋でした……確か、五つになったお孫さんを連れてらしたのですが、ひょっとして、あれは甚太郎さんだったのですかね?」
今度は、平を見返す本多がまばたき一つしなかった。
「あっ、ああ、平さん! 憶えています。あの時、僕の祖父の注文で、陶器の風鈴を作ってくださった。その音色のことで、祖父と話されていた記憶があります」
平と本多の偶然の縁に、太郎だけでなく、銀平は酔いを醒ますかのように頬を両手で叩いた。
「ええ、甚兵衛さんは大の日本酒ツウで、季節ごとに器を変えたり、膳の風情を楽しまねば、酒は美味くないとおっしゃいましたよ。それで、ガラス玉とちがう音がする陶器や磁器の風鈴も手がけようとして、私に依頼されたんです」
当時の平は、三十代半ば。甚兵衛は世代のちがう陶芸家で本物の酒を好む平に、器の色、その音で楽しむ酒の飲み方を解いた。清酒の需要が目減りし、くだを巻いて酔っぱらうだけの酒飲みの時代は、もうすぐ終わるだろうと甚兵衛は読んでいた。
冬の張りつめた冷気の夜は、ポコポコと暖かい注ぎ音がする徳利を。うだるような夏の夜は、澄んだ音を奏でる水琴窟のような片口を。美酒を美味しくする脇役には、音も肝心なのだと持論を謳い、侘び寂びた音色の平の風鈴を「晴耕雨読の酒膳に合う音だ」と称えた。
そして甚兵衛は、ガラス玉の江戸風鈴の音を平に聞かせて意見を乞うた。
仕上がった甚兵衛の江戸風鈴はさまざまだったが、どの音色も酒を嗜む人向けの風流をまとっていた。
平が語る追憶を、本多の声が差し止めた。
「その時の話しを、教えていただけませんか。幼児の僕には無意味でしたが、今はノドから手が出るほど祖父の教えが欲しいのです」
気づくと年配の客たちも惹起され、相槌を打った。平は、しかつめらしい顔の本多の肩に手を置いて答えた。
「そんなに畏まってちゃ、甚兵衛さんに叱られちまいますねぇ。『五感を研ぎ澄ますなら、まずは上等な酒を飲み、上手に酔うべし』。これが、あなたのお祖父さんの持論でした。ただ、それだけです。技術は二の次だと、おっしゃいましたよ」
平がお銚子を手にすると、表情を固めている本多に銀平がしびれを切らした。
「ええい、しゃらくせえ! くそ真面目なあんたは、酔わなきゃ耳が冴えねえタイプだってんだよ。酒好きな祖父さんの血を引いてんなら、飲まなきゃ解んねえってこった。俺だってよ、うちの祖父さんが酒飲みだったから肴の目利きができるってもんよ」
本多は強引な銀平に気圧されたが、燗酒を口にすると、ようやく緊張をほどいた。そして祖父の風鈴の木箱へ手を伸ばし、愛しげに頷いた。
「ほほ~。築地育ちの銀平さんは、深川育ちの本多さんと息が合いそうですねぇ。兄貴分として、付き合ってあげてはいかがですか」
平の褒めそやしに、銀平はまたぞろ気を良くした。
「がってんでさぁ。本甚の風鈴、うちの火野屋の軒先にも吊るしてやろうじゃねえか!」
「ほ、本当ですか。ありがとうございます。この夏はポンバル太郎さんで日本酒を嗜んで、祖父の江戸風鈴を聞きながら酔ってみます」
「あたぼうよ!」と調子に乗る銀平に太郎と平が顔を見交わした時、玄関の扉が開いてジョージが入って来た。手には、店先に吊っていた江戸風鈴を提げている。
「銀平さん。この風鈴は、どうするの? ちんけな音だって、腐していたじゃないですか」
「えっ!? 俺は、そんなことを言った憶えはねえ! おめえの空耳だろ」
どぎまぎする銀平を前にして、客たちが白い目に変わった。
「まったくよ。研ぎ澄まさないといけねえのは、おめえの軽い口だよ。この二枚舌野郎……って、あの世でハル子が飽きれてらぁ」
神棚を見上げる太郎は本気で怒ってる風ではなく、こんな銀平の人柄もポンバル太郎の味を作っていると胸の内でハル子に伝えた。
赤っ恥をかいている銀平に、ジョージの手にする江戸風鈴がチリンと鳴った。