Vol.109 助六

ポンバル太郎 第一〇九話

 比叡山を越えた雲が、祇園にしぐれを運んで来た。そぼ降る雨に濡れる石畳は、行き交う雑踏や傘の影を映している。

 ゴールデンウィークが過ぎると先斗町や花見小路の人いきれは幾分落ち着いたが、それでもアジアからの観光客が絶えない。四条や三条の賀茂川のほとりには、口早な中国語が飛び交っていた。

 そんな喧騒をよそに料理屋「若狭」の客席は静かで、カウンター席では中之島哲男が女将の仁科美江から酌を受けている。隣に座る右近龍二は、壁に飾られた芸妓たちの名入れ団扇へ見惚れていた。龍二は連休を振り替えた休暇を使って、京都を訪れている。
「明日は、太郎ちゃんへの土産酒を探しに伏見の蔵元めぐりや。最近は外国の観光客がぎょうさん買うせいか、京都の酒が売れて、三季醸造してる蔵元もあるみたいやで」

 中之島の声に頷く龍二が味わっているのも、伏見で人気の無濾過生原酒である。

 冷酒グラスを置いた龍二の手元に、仁科美枝が小さな札を置いた。千社札のようなシールの中には、筆字とともに舞妓の後ろ姿も描かれていた。
「……京都では、日本酒で乾杯しておくれやす。京都市では清酒普及推進条例が施工されました……か。へぇ! これって、条例なんですか?」

 龍二が、冷酒を継ぎ足してくれる美江に訊いた。
「へぇ、そうどす。日本で初めての、日本酒を飲んでもらうための条例やそうどす。けど、別に飲まへんでも、罰金は取らしまへんえ」

 正絹の着物、西陣の帯をまとった美江の上品な笑顔は、初めて祇園にやって来た龍二をなおさら魅了した。出発前には銀平から、舞妓に鼻の下を伸ばすんじゃねえとたしなめられた。

 料理を盛り、酒を注ぐ美江の立ち居ふるまいやしぐさには、如才のなさが窺えた。その穏やかな目元が、ふいに開いた玄関の格子戸へ向いた。
「才蔵はん……もう具合は、よろしいの?」

 つぶやく美江の表情に、翳りが覗いた。視線を龍二がたどると、見覚えのある若い男が気まずげに格子戸を開けていた。切れ長の目つきと五分刈りの頭が、テレビで目にする歌舞伎役者と重なった。確か、伏見の銘酒のCMにも起用されている。手にはサングラスと野球帽を持ち、店先まで人目を忍んでやって来たようだった。

 弱冠二十八歳、最近、めきめきと頭角を現してきた歌舞伎役者の片山才蔵だった。
「あれっ、本物の才蔵?」

 美江の顔を見返して驚く龍二に、中之島が唇に指を立てて囁いた。
「才蔵はんは、子どもの頃から、この若狭の常連さんや。わしの大阪の店にも、たまに寄ってくれはってな」

 声音を落とす中之島の配慮に、機転がきく龍二も無言で頷いた。

 カウンター席に座る才蔵が、「ご無沙汰してます」と中之島へ小さく会釈した。疲れ気味な横顔に、数年前、マスコミに叩かれた不遜な印象はない。
「どうも、お久しぶりでんな。才蔵はん、ちょっと痩せはりましたかなぁ。京都でもモテモテで、酒席の御呼ばれに忙しいのちゃいまっか?」

 陰気な才蔵をはぐらかすように、中之島が持ち上げた。だが、才蔵の目の光は弱々しい。

 数日前のスポーツ新聞の記事は、精彩を欠いた才蔵の「助六」の演技に冷や水を浴びせた。足元はおぼつかず、見栄やキレの悪さも突かれていた。
「ふぅ……ご存知でしょうが、どうにも無様なことで。ここんとこ、好きな伏見の酒も口にしてないし、美江さんの手料理だけが栄養剤みたいなもんですわ」

 才蔵の口から飛び出した流暢な関西弁に、龍二が目をしばたたいた。長いため息が、四人しかいない店内に響いた。
「そやから、いっぺん実家へ帰ってきはったら、どうどすの。危篤になる前に、西陣へ行っておいでやす」

 美江が九条葱の白あえと海老芋の煮物を、才蔵に出しながら言った。京料理らしい“うすいろ”のおばんざい、つまりは、素材の味を生かした薄味のおかずである。
「それは、意地でもできまへんわ。養子縁組に反対してたおふくろとは喧嘩別れで、もう十年も会うてません。まあ、親の死に目に会われへんのは役者の定めですしね」

 才蔵は、面識のまったくない龍二にも愚痴を隠さなかった。それほど気が滅入っていると察しながらも、龍二は才蔵の言葉が腑に落ちなかった。確か、才蔵は東京の歌舞伎家元・片山万雀の跡継ぎ。じゃあ、京都の実家とは……小首をかしげる龍二に美江が口を開いた。
「才蔵はんは片山家の名跡を継いでるけど、実は、西陣織の老舗の生まれ育ち。中学時代に映画の子役やったのを家元が目に止めて、高校を卒業した時に養子縁組を申し出たんどす。才蔵はんの養子入りを薦めたお父はんは、その二年後に若うして亡くなり、今は才蔵はんの兄さんが家業を継いではります。反対してたお母はんは若狭の出身で、あての同級生どす。昔、才蔵はんの家族は、うちへ食事によう来てはったの」

 打ち明ける美江の声を、才蔵は箸を割りながら聞き流していた。

 そこまで聞けば、ここ数日の演技が思わしくない理由を龍二とて理解できた。今生の別れを前に、実の母子はいがみ合ったままなのだ。
「マスコミは、おふくろの具合が悪いのをまだ知りまへん。けど嗅ぎつけたら、養子縁組に反対してたおふくろとの諍いを書き立てますやろ。それでも、俺はかましまへん。もう、縁は切ってますよってに」

 やけ気味な才蔵が、海老芋を箸でつまもうとした時、美江が袂から白い紙を取り出してピシャリと言い放った。いつにない、腹が据わった美江の声音だった。
「才蔵はん。これを、見直しておくれやす。あんさんがお母はんと喧嘩して役者になると決めた日、あてに渡した誓書どっせ」

 才蔵の目は、色変わりした古い封筒からしばらく動かなかった。中之島と龍二が、固唾を呑んで見つめていた。

 中から取り出した便箋に、若かりし才蔵の筆致が走っていた。
「いつか助六を演じられる役者になって、おふくろと仲直りして、もう一度、若狭でおばんざいを一緒に楽しみます……か。ほんまに情けない。すっかり忘れてます」

 はにかみながら封筒に残る小さな塊りも取り出した才蔵だったが、見る間に真顔へ変わった。
「匂い袋……この香りは、おふくろが好きやった白檀や。どうして、こんな物が? しかも、この刺繍は助六や!」

 匂い袋には、歌舞伎の助六の絵と片山才蔵の名が刺繍されていた。生地は西陣織ならではの、緻密で繊細な織り方だった。

 開いたままの誓書を、美江が丁寧にたたみながら答えた。才蔵は、茫然として固まっている。
「あては、才蔵はんが養子入りした後、お母はんをここへ招いたんどす。それで、この誓書を見せました。お母はんは悔し涙を流しながらも、ほんまは、こんな匂い袋を作ってましたんえ。それでも、女の意地でっしゃろうなぁ。才蔵はんには、決して本音は言われしまへん。いつかあてが、才蔵はんは実家へ帰るべきやと思うた時、これを渡して欲しいと言われて預かったんどす。才蔵はん。親はいつまで経っても親どす。もう、素直になりなはれ」

 才蔵の指先が、匂い袋の助六を撫でていた。その生地に、ポツリと小さなしみが落ちた。
「美江さん、すんまへん。そやけど俺、今すぐには戻れませんわ……」
 言葉を切った才蔵の隣で、中之島が仁王立ちした。
「あほう! そういう時のためにも、酒があるんやないかい。酔うた勢いで、西陣までタクシーを飛ばしてまえ! 歌舞伎の演目の助六かて、吉原で腹いっぱい酒飲むやないか。そないなことで、助六のはまり役になれるかい!」
 しびれを切らした中之島が盃を渡すと、龍二が席を立って才蔵にお銚子を傾けた。
「次の公演、その匂い袋を忍ばせて、才蔵さんらしい見栄を切ってくださいよ。きっと、上手くいきます」
 唇をへの字にして噛みしめる才蔵の顔は、人情味にあふれる助六そのものだった。