寒風にさらされた積雪が、通りのほのかな明かりを吸い込んでいる。
早朝に5センチほど積もっていた都心の雪は、あちこちで凍てつき、家路へ向かうサラリーマンたちを困らせていた。
マチコの客たちも皆おぼつかない足取りで店先へたどり着いたが、足元に立っている小さな雪ダルマに気づいて、ふっと表情をゆるめた。提灯の赤い灯を映す雪ダルマは、ほんのりと酔っ払っているかのように見えた。
「み~んな、あいつに癒されちゃってるじゃん。誰が作ったの?」
カウンター席の澤井が、盃を舐めながら真知子に訊いた。
「もち私よ、と言いたいとこだけど……ほんとは近所の小学生たち。夕方に玄関の陰に残ってる雪をどけてたら、下校してた子どもたちが『おばちゃん、雪ダルマ作っていい?』ってさ。慣れない手つきを見てたら、つい一緒にやりたくなっちゃってね」
湯気の中でおでんをよそいながら、真知子の顔が嬉しそうにほころんだ。
「ふ~ん、おばちゃんかあ……真知子さんも、そんなふうに言われる歳なんだねぇ」
澤井に酌をする松村が、赤い顔で、ちょっといじわるげに笑った。
「ちょっとあんた! 雪ダルマの話ししてんのに、何でそっちに行くかな。何だったら、おばちゃんの口撃で“火ダルマ”になりたい?」
真知子が菜箸を振って脅すと、松村は「うへっ! 冗談っすよ、冗談。この口、フリーズしときます」とうつむいた。
「でも、明日には溶けちゃうだろうねえ。せっかく作ったのに、もったいないなあ」
松村のようすにプッと吹き出した宮部が、ひと呼吸置いてつぶやいた。
その言葉に、真知子や周囲の客たちがそろって玄関に視線を向けた時、カウンターの隅から声がした。
「大丈夫ですよ、たぶん。明日も冷え込むみたいですし……湿った雪だから凍ると硬くなって……溶けにくいです」
おだやかな口調にまたも全員が振り返ると、その先に、おとなしそうな若い男が座っていた。背広姿の細身の男は、いたのかどうかも分からないほど目立たず、彼の言葉には多少の東北訛りがあった。
「へえ、そうなの?」澤井と宮部が声を重ねると、松村が「僕の出身地の彦根も、そうっすよ」と答えた。
「あの、雪国のご出身ですか?」
真知子は男の前にあるお銚子を手にして、「どうぞ」と傾けた。
「あっ、恐縮です。……秋田の横手って町、ご存知ですか?」
律儀に両手で盃を持ちつつ、男が真知子に言った。「町」の発音が、かすかに「まつ」と聞こえた。
「ええ……ほら、あのお酒。横手の地酒で、うちの人気銘柄なんですよ」
真知子が冷蔵ケースを指差すと、男は「あっ!」と声を上げ「それって“雪中おばこ”じゃないですか。東京で、初めて見つけました! どこにも置いてなくて。いやあ、懐かしいなあ~」
男は思わず中腰になり、身を乗り出して酒瓶を見つめた。
人が変わったように興奮する男に、松村や澤井たちが「良い人みたいだね!」と顔を見合わせた。
とその時、ガラッと格子戸が開いて、眼つきの険しい大柄の男が入って来た。コート姿の男は店内を睨みつけるように見回すと、カウンターの隅の男に目を止め、ぶっきらぼうに「おう!」と声を吐いた。
男が戸を開け放ったままカウンターに座ると、松村が「ったく、お行儀悪いねえ~」としぶしぶ立ち上がった。
すると、玄関に向かおうとする松村の後ろ襟を、真知子がつかんだ。
「ぐへっ! な、何すんだよ、真知子さん」
眉をしかめる松村を無視して、真知子は、今、腰を下ろしたばかりの男に近寄った。
「申し訳ありませんが、お帰り願えますか」
真顔になった真知子に、一瞬、二人の男だけでなく、常連客たちもキョトンとした。
「な、何だよ、いきなり。たかが玄関を閉め忘れただけだろ。それに、俺は客だぜ。おかしいんじゃねえか? このおばちゃん」
大柄の男が言い返すやいなや、「わっ、おばちゃん、や、やばい!」と澤井と松村が口をハモらせた。
しかし、真知子は意に介さない面持ちで、男の足元をさっと指差した。
「……あなた、何が気に入らないのか知らないけど、玄関の雪ダルマを蹴って、壊したでしょ。お隣のお客さんには申し訳ありませんけど、そんな無作法な方は、うちのお客さんじゃないわ」
男のくるぶしあたりに、湿った雪の塊がまとわりついていた。
真知子の声に、常連たちが玄関を振り向くと、雪ダルマは崩れた雪塊になっていた。
「ちっ、たかが雪ダルマぐらいで大騒ぎする店なんて、こっちからお断りだよ!おい三郎、ほかへ行こうや!」
コートの男が、背広の男に顎をしゃくった。
「ダメだよ、徹……ちゃんと謝れよ。お前、悪いことしたんだろ。迷惑かけたんだろ……今回の失敗だってそうじゃないか! いい歳して、まだ分かってないのかよ。いくら儲けたって、人としてのルールやモラルを守らなきゃ、世の中からは叩き出されるんだよ」
「う、うっ、うるせえ! お前まで、何だよ。そうかよ、分かったよ!帰りゃいいんだろ!」
居丈夫そうな男はドカドカと足音を響かせ、暖簾を跳ね上げて出て行った。
「女将さん、すみません。皆さんにも、ご迷惑をおかけして、ごめんなさい」
三郎と呼ばれた男は真知子に詫びると、カウンターの客一人一人に、ていねいに頭を下げた。
「まあまあ、一杯飲みなよ。あんたが悪いんじゃないんだからさ。でも、あの徹って人、どうしたの? 相当危ういって感じだけど」
松村が三郎の左隣へ移り、酒を注ぎながら訊いた。
「あいつ……去年の暮れに、会社を潰しちゃったんですよ。僕も、そこの社員でした。二人とも、まだ独身なのが救いですが。20代でIT関連の会社起こして、いいとこまで行ったんですけど、慢心と言うか傍若無人と言うか、周りを無視した傲引なやり方がどんどんエスカレートして、最後に大失敗してトコトン信用を失っちゃって……僕たち、同郷の幼なじみなんです。だから、もう一度、あいつに昔の横手人気質って言うか、人間らしさを取り戻してやりたくて。また1から出直すために、帰郷しようって持ちかけてたんです」
三郎は、少し鼻声になりつつ打ち明けた。
「で、今夜が、その話し合いだったわけだ」
宮部が三郎の右隣に座りながら言うと、カウンター周りがしばらく沈黙に包まれた。
「……あいつ、分かってるくせに認めたくないんです。だから、雪ダルマを蹴飛ばしたんだと思うんです」
「そうね……ごめんなさい、私もおとなげなくて」
頬杖をついて洩らした三郎に、真知子はそっとほほ笑んで頭を下げた。
「まあ、彼に少しでもその気持ちがあれば、もう一度戻ってくるさ。それまで、懐かしい横手の酒であったまることだな」
澤井が真知子に目配せして、“雪中おばこ”の燗を頼んだ。
「ありがとうございます。……その前に、ちょっと」
三郎は席を立つと、玄関を開けて、壊れた雪塊の前にしゃがみこんだ。
客たちが見守る前で、彼の手は器用に小さな“かまくら”を作った。
「……横手の名物よね」
真知子がつぶやいた。
「ええ。お城の公園に、小さなかまくらをいくつも作って灯篭にするんです。とっても幻想的で、優しい気持ちになるんです」
三郎の少年のような横顔に、真知子が「そうだ!」と厨房へ走り、一本のロウソクを持って来た。
いつの間にか、マチコの玄関に数人の客たちが集まっていた。
三郎がかまくらのなかにロウソクを立てたその時、ぽっと、ライターの火が差し出された。
揺らめく灯りが、はにかむ徹の顔を照らしていた。
「と、徹……戻って来たのか」
目を見開いたままの三郎に徹は小さく頷いて、火を点した。
「ああ……帰ったら、本物のかまくらに入ろうぜ」
オレンジ色のかまくらの灯に、真知子や澤井たちの笑顔が揺れていた。