「いよいよ、桜花賞かあ」
カウンターで一人ごちる松村は、スポーツ新聞を片手に冷酒グラスを傾けていた。土曜の夕日はずいぶんと温かく、マチコの小窓から注ぐ赤い陽ざしが、その横顔を染めている。
この週末が桜の見頃とあって、隅田川沿いや上野公園は花見客でごったがえしているようだったが、マチコの界隈は人通りも少なく、ひっそりとしていた。
店内には、真知子と松村しかいない。
「今日は、ヒマだと思ってたわ。みんな、たまには家族サービスもしなきゃね。 和也君、いいの? 太郎君をお花見に連れて行かないの?」
真知子の声が、カシュッ、カシュッと包丁を砥ぐ音の間から聞こえた。
「僕は、連れて行きたいんですけどねぇ。カミさんが、『風邪引いたら大変だし、お花見の人ごみって、埃がいっぱいでしょ!』って、ダメなんです。 明日は、桜花賞レースをTV観戦っすよ」
松村が新聞をたたんで答えた時、格子戸がガラリと開いて、二人の男が入って来た。松村も見たことのない、新顔だった。薄汚れたジャンパー姿の男と紺色のスーツを着た若い男は、ちょっと不釣合いなコンビだった。無精鬚を伸ばした顔と、端正で清潔な容貌が対照的でもあった。
真知子の「いらっしゃい!」の声にジャンパーの男はちょこんと頭を下げ、カウンター席にするかテーブルにするか、迷っているようすだった。
「カウンターで、いいよ。話しが済んだら、すぐ帰るぞ」
スーツの男はそう言うと、憮然とした態度でジャンパー男の背中を押した。
「あ…ああ、そうだな」
ジャンパーの男は、力無げな声でカウンターの奥へ進んだ。
腰を下ろした男たちに、真知子が「はい、つきだしね」と菜の花の煮びたしを出した。ジャンパーの男が「……春だなぁ。じゃあ、俺は吟醸酒を」と言いかけると、「何を言ってんだ……瓶ビールでいいよ」とスーツの男は真知子に注文した。
二人ともうつむきかげんで、沈んだような溜め息を吐いた。そのしぐさがあまりに似ていたので、松村は思わず「ふっ」と笑った。
ジャンパーの男は松村を見返すと、手元に置いているスポーツ新聞を凝視した。それに気づいたスーツの男が、声を高くした。
「おい兄貴、いいかげんにしろよ。まだ懲りないのかよ」
スーツの男がカウンターを叩いて言った途端、携帯電話が鳴った。ジャンパーの男は、ポケットをまさぐって電話を取り出した。
「もしもし……ああ、俺だ。枠連と三連複にするけど…また後で電話するよ」
ジャンパーの男は、気まずそうな表情で電話を切った。
「今のノミ屋だろ? まったく、性懲りもなく。そんな電話代があるんなら、俺の金、早く返せよ! もう、今日という今日は我慢ならない! この電話は没収だ!」
スーツの男は、ビール瓶を置く真知子を気にすることもなく咆え、ジャンパーの男から携帯電話を奪った。
「正二、それだけは勘弁してくれよ。そいつが無いと、俺、困るんだよ。メシが喰えないよ」
ジャンパーの男が、手をすり合わせて頭を下げた。
「馬鹿野郎! まともに仕事もしないで、メシが喰えるわけないだろ! 賭け事にも程度ってものがあるだろ。いい加減にキチンと働けよ。それで、俺の貸した総額300万、ぜったい今年中に返せ! それができなきゃ、死んだ親父に代わって俺が勘当してやる!俺の用件はそれだけだ。さっさと帰って、明日からちゃんと職を探せよ!」
スーツの男の罵声が終わると、ジャンパーの男は、また「はぁ」と溜め息を吐いて立ち上がった。そして、ビールに口もつけず玄関へ歩くと、ちらっとスーツの男を振り返り、出て行った。
松村がスーツの男を見ると、彼はジャンパーの男を無視してビールを飲み干していた。
「……あの、立ち入ったことを訊くようですけど。さっきの人、あなたのお兄さんでしょ?」
唐突に、松村がスーツの男に言った。
男は「だったら、どうなんですか。あなたに関係ないでしょう。立ち入ったことと思うなら、聞かないでもらえませんか」と眉をしかめた。
「いや、この店は、おせっかいな客が多くてね……それに横で聞いてると、だいたいのことは察しがついちゃって、放っておけなくてね。お兄さん……まだ、あなたの助けが必要だと思いますよ」
松村の真剣な表情を、真知子はカウンターの中から見つめていた。
「ふん! 知ったふうなことを、言わないでくれ。あんなヤツ、兄じゃない。のたれ死んでもしかたない。これ以上、面倒見切れないんだ!」
スーツの男は少し興奮気味に、「ちくしょう……酒、冷やでもらえますか」と真知子に言った。その声にかまわず、松村が話し始めた。
「僕が子どもの頃、似たような伯父がいたんです。父親の兄にあたる人ですけど、ふとしたことで賭け事に溺れてね。どんどん家庭も崩壊しちゃって、ヤバイ筋に借金して、僕の父に金を無心してきた。でも、父はガンとして突っぱねて、結局、伯父は行方不明、最期は行き倒れたんです。でも、老いてから父は悔やみました。『たった一人の兄を、あんなふうになじり、冷たくするべきじゃなかった。かけがえのない兄貴を、俺は自分の手で失くしちまった。どうして、本気で助けなかったのか』ってね」
松村の真っ直ぐな声が、店内に響いた。スーツの男はためらうような顔をしていたが、真知子の注いだコップ酒をぐっとあおって答えた。
「……兄は正一、俺は正二。そんな名前が、子どもの頃は好きでした。優しい兄貴で……でも、4年前に離婚してから兄は変わりました。息子も連れてかれちまって、子煩悩でしたから寂しさもあったんでしょうけど。仕事が手につかなくなって、バクチで気をまぎらわした。最初は、俺も気晴らしにはまあいいかってぐあいで金を貸してたんですが、そうするうちに会社を辞めてブラブラと過ごし始めた。……こっちも忙しいし、いい大人なんだから、そこまで落ちぶれるとは思ってませんでした。でも、もう金額の問題じゃないんですよ、いい加減に立ち直って欲しいんです。だからこそ、心を鬼にしなきゃいけないんです。兄弟の縁を切る覚悟で!」
声をふるわせる正二に松村が何かを返そうとした時、真知子が熱いほうじ茶をカウンターに置いて言った。
「……私は一人っ子なの。だから、兄弟、姉妹が欲しかった。兄弟の縁って、そんな簡単に切れるのかしら。あなたとお兄さんの外見は似てないけど、口元やちょっとしたしぐさが、本当に瓜二つよ。正二さん……そんな意地張って、覚悟することないと思うわ。あなた方に今一番必要なのは、昔のような兄弟の姿で心を開き合うことじゃないかしら。お兄さん、本当は分かってるはずよ、このままじゃいけないってこと。でも、どうしても、ほどほどができない。体を張って止めてくれる人がいないのよ。それは、あなただから、弟だから、できることじゃないのかしら」
茶椀から立ち上る柔らかな湯気が、真知子のおだやかな言葉を包んだ。
しばらく黙っていた正二は茶をふた口ほどすすると、意を決したようにすっと立った。
「酔いざましのお茶、ありがとうございます。それと……温かい心も」
勘定をすませ頭を下げる正二に、真知子がふくよかな笑顔を返した。
「……まだ、駅前辺りじゃないかな」
腕時計を見ながらほほ笑む松村に、正二は「ええ、追っかけます」と答えて出て行った。
正二を見送った真知子は、カウンターの松村を振り向くと、まんざらでもなげに胸を張った。
「ふむ、今日の和也君、上出来ね。では我が弟よ、明日の桜花賞はほどほどにするように」
「はいはい、姉上。分かっておりますよ~」
春の夜風が二人の笑い声に誘われるように、赤提灯を揺らせていた。