Vol.68 ファインダー

マチコの赤ちょうちん 第六八話

「真知子さ~ん!熱いの1本、つけてくれるぅ~」
ガラリと格子戸が開くと、ずいぶん酔いが回っているのか、松村が足元のおぼつかない様子で入って来た。トレンチコートの上に巻いたマフラーの中に、赤らんだ頬と鼻が覗いている。
柱時計の針は、もう11時を過ぎていた。
常連客も引き上げたのか、マチコの店内には、見慣れない2人の男と女1人のグループがいるだけだった。
そろそろ厨房の片付けをと思っていた真知子は、千鳥足の和也に「まったく、毎日飲みすぎ……」と小言をこぼしかけた。
その時、テーブルにいた3人組みの席で、バンッ!と大きな音がした。
「結局、俺のカットのどこがダメなんすか!毎回、照明だっていろいろ考えて、気合入れて撮ってんだから、もう少しあの担当者を説得してくださいよ。意味も無く撮り直しばっかりじゃ……俺だって、カメラマンとしてのプライドがありますよ」
顔を紅潮させた茶髪の若い男が、鬚面の男に向かって、机を叩いて興奮していた。彼は、松村に負けず劣らず、酔いが回っているようだった。
「何だ?どうしたの?」とテーブル席にちょっかいを出そうとする松村を、真知子はコートの襟を引っ張って、カウンター席に座らせた。
茶髪の向かい席の男は、タバコを灰皿にグリグリと揉み消し、彼の顔をうっとおしそうに見返した。
「グダグダ言わずに、撮り直せばいいんだよ。カメラマンのプライドだと。けっ!町のスーパーのチラシの撮影に、そんなもの必要ねえよ。それに、あの担当者は、お前のことが嫌いなの。だいたい、お前レベルの奴なんて、世の中にゴロゴロしてんだよ。そんなに嫌なら、来月からハズれてもらって結構!毎回毎回、同じクレームばっかり出しやがって。ディレクターの俺の身にもなってみろ。こっちだって、お前が仕事無くて大変だろうから、我慢してやってんだ」
男がそう吐き捨てて立ち上がると、横に座る派手な化粧の女は、冷酒グラスをくぃっとあおって言った。
「シゲちゃんは、やっぱカメラマンの才能無いかもね。アタシだってモデルの端くれだから、一緒に仕事してて、何となく感じるもん」
途端に、シゲと呼ばれた茶髪の男が腕まくりをして、声を荒げた。
「何だと、このブス!」
女は、キャッと叫んで鬚男の背中に隠れると「何よ、ヘタクソ!」と言い返した。
「よせ!お店の迷惑だ。おいシゲ、行くぞ」
鬚の男は、そう言って勘定をした。だが、茶髪の男は「俺、行かないよ」と答え、座り込んだままだった。
「勝手にしろ!」
真知子に金を払った鬚男が女を連れて出て行くと、しんと静まった店内に、茶髪の男の「ちくしょう……くっそう……」とつぶやく声だけが響いた。
柱時計が、11時半の鐘を鳴らした。
真知子は「ふぅ」と小さく溜め息を吐き、テーブル席に向かおうとした。その時、松村の手が真知子を制した。
「おい、シゲちゃん……だったよな。こっちへ来ないか?」
いくぶん真顔になっている松村が、茶髪の男に声をかけた。
「……気安く呼ぶなよ、おっさん」
茶髪が、ふてくされた顔で答えた。
「おっ、おっさん!てか?この野郎、たぶん、そんなに歳は違わねえよ。あのな……おせっかいかもしれねえけどな。お前、今のまんまじゃ、やっぱ、本物のカメラマンにはなれねえな」
その言葉に茶髪の男はムッとして顔色を変え、カウンターへやって来ると、松村の横にドスンと腰を下ろした。
「おっさん、俺に、ケンカ売ってんのか!?」
真知子は、そうなろうものなら割って入るつもりだったが、松村はいつになく冷静になっていた。
茶髪の男は、松村の顔をじっと睨み返していた。
「うん。いい目してるじゃんか。惜しいなぁ、その短気が。撮影はそこそこできるみたいだが、仕事を見る目が、まだまだダメだな」
松村はそう言ってグラスに冷酒を注ぐと、茶髪の男に渡しながら「名前は?」と訊いた。
茶髪の男は憮然としていたが、何かを吹っ切るようにグィッと飲み干すと、「小野 茂」とぶっきらぼうに答えた。
「俺は松村。まっ、同業者みたいなもんだ。ところで小野君、この酒、どうだ?」
松村が注いだ酒の四合瓶を手にして、小野に訊いた。
「俺は、うまいと思う」
小野の自信ありげな答えに、松村がゆっくりと言葉を続けた。
「じゃあ、この酒を撮影するとして、君なら、どんなふうに撮る?」
松村が小野の前に、水色の四合瓶をコトンと置いた。
「ふんっ」と鼻息を発し、小野はなめらかな文字の書かれたラベルやボトルを、しばしの間、さまざまな角度から眺めていた。
「光は2灯点けて、瓶の青い色が、少し濃い感じになるように」
力がこもる小野の答えを、松村の声が止めた。
「ちがうな……俺が訊いているのは、そんなことじゃないよ。ファインダーを覗く瞬間、もっと大事なことがあるんだ。この酒は、誰が、どんな気持ちで、どうやって、何のために造ったのか。それを感じなきゃ本物の撮影はできない。物撮りで大切なのは、技術だけじゃない。今の君には、まだ解らんだろうけどな。……それと、自分を主張することは大事なことだが、相手と仕事を選ぶべきだ。さっきのスタッフ相手じゃ、無意味だろ」
今しがたまでの酔いはどこへ消えたのか、松村の整然とした言葉に、真知子は思わず感心していた。
小野が、射すくめられたように立ち上がっていた。
「まっ、松村さん……悔しいけど、それ、図星です。お、俺、そこに焦りがあって……すみませんでした、生意気で」
「ふっ……小野君、これ持って帰って、飲んでみろ。俺のおごりだ。でさ、今度、ウチの会社に遊びに来いよ」
頭を下げる小野に松村が水色の瓶と名刺を渡すと、小野は目をしばたたかせた。そして、もう一度、深いおじぎを松村と真知子にして、帰って行った。
「へぇ……いったい、どうなってんの?今夜の和也君。でも、彼って、誰かさんの若い頃みたいなのかしら」
真知子が腕組みして、冷やかすように言った。
「まぁね……これも、マチコのおかげですよ。いつも、心のファインダーを鍛えてもらってますからね~♪さてと、じゃ、おかわり!」

松村はまんざらでもない表情で、空のグラスを差し出した。
「調子に乗ってんじゃないの!和也君、私の気持ちをまったく読めてないじゃないの。もう、閉店よ!」
「え~、そんなぁ」
二人の会話が、赤ちょうちんの温かな灯の中にとけ込んでいた。