カタ…カタタと遠慮気味に格子戸が開くと、濃いブラウンに髪を染めた若者が首から上だけを覗かせた。
したか、しないかの小さな音に、真知子が「はい?」と厨房から顔を出した。彼は、真知子の清楚な割烹着姿にポッと赤くなり、「あの……もう、開いてますか?」と訊ねた。
午後5時前の店内には誰も座っておらず、鍋とヤカンの湯気がゆるやかに漂っていた。
ふいに吹き込んだ冷たい木枯らしが、暖簾と若者の髪を乱した。
「今日は、一段と寒いわねぇ。どうぞ、お入んなさい」
真知子は若者に近づくと、ダウンジャケットの背中を押すようにして格子戸を閉めた。外では赤ちょうちんの灯りが、大きく揺れている。
「お一人かしら?」
真知子がカウンター席の椅子を引き出しながら訊ねると、若者は「あっ、あっ、いえ。もうすぐ、一人来るはずで……」と、やや緊張した様子で答えた。それが証拠に、分厚いダウンジャケットを着たままカウンターに座ろうとしている。
やにわにガラリと音がして、秋月商店の宮部が制服のジャンパーを着たまま、首を縮めて入って来た。
「いらっしゃ、あら?宮さん、今日は注文してないわよ」
小首を傾げる真知子に、宮部は「あ、分かってます。今日は、野暮用があってね」と答え、カウンターに座る若者を見た。
「親父……」と若者が声を洩らすと、「ああ、久しぶりだな」と宮部が目じりをゆるめた。
「えっ、息子さんなの!?」と、真知子は思わず二人の顔を見比べた。どことなく、鼻から口にかけての形が似ていた。
宮部が気恥ずかしそうにして「息子の太一です。愚息でね。まあ、この親にして、この子ありってとこです」とカウンターに腰掛けた。
若者は眉をしかめると「何だよ、7年ぶりに逢いたいって言うから来てやったのに」と口ごたえし、席を立とうとした。
「まあ、待て。せっかく来たんだから、一杯飲んでけ。それに……結婚祝いは要らねえのか?」
宮部は厨房の方を向いたまま、言葉を投げた。
太一はちょっと躊躇すると、「ちぇ!」と舌を打って、椅子に腰を下ろした。
ボーン、ボーンと5時を打つ柱時計の音が、静まった店内に響いた。
「はい……これ、サービス」と、真知子は宮部たちに冷酒を一杯ずつ出した。
“わけあり”らしきことを察した真知子の気遣いに、宮部ははっとして口を開いた。
「こいつ、25歳になったんです。いっちょまえに、3月に結婚するそうですよ。18歳の時に私と大喧嘩して、プイッと家出しちゃってね。まあ、それ以前から私が仕事で家をほったらかしてたもんで、ちょっとグレてたようです。このご時世、自分で仕事見つけて一人暮らしするなんて、できるわけないじゃないのって、女房がやっきになって行方を捜しましてね。私は、縁を切ったつもりでした。2年後に、栃木で日本酒を造ってるって聞いた時には、ぶったまげましたよ。親父が酒売って、息子は酒造ってるなんて、やっぱり因果なんですかねぇ」
宮部が先に事情を披瀝してくれたことに、真知子は安心した。そして、どんな過去があったにしても、一杯の酒を成長した息子と飲もうとする宮部に、もうわだかまりはないのだろうと思った。
「でも、驚いちゃった!こんな大きな息子さんがいたなんて」
おでんの盛り皿を置きながら、真知子はわざと声を大きくした。
「私が23歳の時の子どもですからね……そうか、ヘタすりゃ、40代でおジイちゃんもあり得るか」
そう言って、宮部は冷酒グラスをくいっと飲み干した。そして、ゆっくりと太一を見つめた。
「こんな俺でもな……息子の二十歳の祝杯を、一緒に楽しみたかったんだ。今さらお前にとっちゃ、どうでもいいことかもしれないが、俺はまだ、忘れちゃいねえんだよ」
宮部の頬は、珍しく一杯目でほんのりと染まっていた。
「そうだったの……」と、真知子が小さくつぶやいた。
しばらくの沈黙が過ぎると、太一がグラスの冷酒を一息に飲み干して、言った。
「本当に、そう思ってんのかよ。マジで俺のことを、まだ息子だと思ってんのかよ」
太一の声音は震えていた。それは、怒りのためなのか、喜びのせいなのか、分からなかったが、真知子は「きっと……」と胸の内で確信していた。
宮部は太一の言葉を聞き終えると、ひと言「乾杯しねえか」と答えた。そして、真知子に新しい冷酒を頼もうとした。
その時、太一の声がした。
「じゃあ……これ、飲まないか?」
太一はコートのポケットから、小さな瓶を取り出した。ラベルも何も付いていない、180mlの水色の酒瓶だった。
「……俺の造った新酒なんだ。て言うか、米を蒸すまでが、俺の仕事なんだけど。まだまだ半人前だから、本格的な仕込みはこれから修行さ。これ、親方に少しもらってきたんだ」
宮部は息を呑み、「おっ、お前……」と言ったきり、グラスに注がれる酒に目を奪われていた。
二つのグラスに酒が入った。だが、宮部の手は膝の上で震えていた。
「親父……グラス持てよ」
そう言う太一も、鼻声になっていた。
真知子は思わず背中を向けて、割烹前掛けで瞳を拭うと、ふうっと大きく息を吐いた。
そして、グラスが合わさると、二人はただ笑って酒を飲み干した。
宮部はおもむろに立ち上がると、玄関まで歩き、格子戸を開けた。
「……親父、風邪引くぞ」
そう言いかけた太一を、真知子のほほ笑みが止めた。
宮部の潤んだ瞳に、冬の丸い月が浮かんでいた。