Vol.58 前売り券

マチコの赤ちょうちん 第五八話

めっきりと涼しくなった金曜の夜、雲間から現れた半月がマチコの小窓から見えていた。閉店前の店には、真知子と津田の姿があるだけだった。
「猛暑に台風、おまけに地震。なんや今年の夏は気色が悪かったなあ」
夏の出来事を特集した夕刊を開きながら、津田はぬる燗の盃を空けた。
「でも、すっかり秋なのね。ほら」
真知子は帰ったお客が残したブリ大根の皿を片付けながら、その新聞の裏面を目で指した。津田が「ん?」と紙面を裏返した。
「ほう、彼岸花か」
田んぼの畦に咲く紅色の花が、津田の老眼鏡に映っている。
とその時、カタカタと格子戸が動いて、見慣れない男が入ってきた。
年齢は30代後半と思えるが、灰色のスーツの皺もさながら、くたびれた雰囲気をただよわせていた。
男は「あと30分で、お終いですけど」と言う真知子を無視するかのように、カウンターの隅に座った。
そして、津田を見るなり「あっ!」と叫んだが、すぐにうつむいて「さ、さ、酒を……冷やで」と細い声で注文した。
「おっ……関西弁やな」と、津田が真知子と目を合わせてつぶやいた。
真知子が付き出しの小鉢を出しながら、男に訊いた。
「銘柄は、何にしましょうか?」
「そ、そうやなぁ……奈良の酒、ある?」
男はちらっと、津田の前に置いてある瓶を一瞥した。奈良県の地酒だった。
その視線に津田は笑顔を浮かべたが、男は愛想を返すこともなく、黙ったまま真知子の注ぐ酒を見つめていた。
男は肴を一品も口にせず、3杯、4杯と同じ冷酒を煽った。
赤くなるでもなく、むしろ青ざめているような男の横顔に、真知子が「あの……お水、入れましょうか?」と声をかけた。
「ち、ちょっと、ほっといてくれへんか」
視線の据わってきた男は語気を強めると、手洗いに行きがてら津田の顔をじっと見返した。
「けったいな奴っちゃな。真っちゃん、もう時間も時間やし、あんまり酔っぱらいよったら、わしが……うん? 何じゃ、これ」
男をそしる津田の足元に、色褪せた小さな紙切れが落ちていた。拾い上げてみると、それは昭和50年代に流行ったSF映画の前売り券だった。
「えらいまた、懐かしい映画やないか。しゃあけど、何でここに落ちてんねん?」
津田が小首をかしげた途端、「返してくれっ!」と声がした。
目を丸くする真知子の前で、津田の肩越しに伸びた男の手がその券を奪った。しかし、津田が振り向くと、男は唖然として声を上ずらせた。
「あっ、あっ、や、やっぱりソックリや!」
男は津田の髭面を見つめたまま、へなへなとしゃがみ込んだ。そして、肩を振るわせると、ウッウッと泣き声を洩らし始めた。
「ねえ、あなたどうしたの? 最初から、おかしいなとは思ってたけど……いったい何があったの?」
真知子はおしぼりを渡しながら、男を席に座らせた。
「この人、俺の祖父に、よう似てはるんです。30年前に死んだんです。この前、彼岸で奈良の実家へ帰った時、偶然この券が見つかって……お、お、俺、祖父ちゃんに悪いことしてもうたんや」
声を詰まらせる男は、松原と名乗った。奈良市出身で大阪の企業に就職し、2年前から東京営業所へ単身赴任していた。
幼い頃、夫婦共働き家庭の一人息子だった松原は、根っからのお祖父さん子だった。遊園地、公園、海水浴と、忙しく働く両親に代わって松原の面倒を見たのは、大正生まれの祖父だった。
「祖父が亡くなる1週間前、映画を見に行く約束をしとったんです。でも、急なお悔やみごとがあって、祖父は行かれへんようになった。その映画をずっと楽しみにしてた俺は、祖父を“嘘つき”呼ばわりして、それからしばらく祖父の家へ行かへんかった。結局、その間に心臓発作で……」
「そのお祖父さんが、わしと似てまんのか? うーむ……嬉しいような、辛いような、なんや複雑な気持ちやなあ」
そう言って津田が徳利を傾けると、松原は「そっ、その地酒も、偶然やけど、祖父の好きやった酒です」と声を大きくした。
「ふうっ」と溜め息を洩らす津田に代わって、真知子が「それで、その券って?」と訊ねた。
「このお彼岸の前に、30年もほったらかしてた祖父の衣装ケースをおふくろが処分しかけた時、背広のポケットからこれが出てきたんです」
祖父の思い出を懐かしむ親戚たちの前で、母は破れたポケットの裏地に隠れていたその券を披露した。「へぇ、懐かしいな」と騒ぐ人たちの肩越しにそれを見た瞬間、松原の体に電撃が走った。
「祖父ちゃんは、俺との約束を破ってなかった。そやのに俺は、そんな出来事すら忘れとったんです。あの時、俺に罵られた祖父ちゃんは悲しかったやろなあと、ここ数日落ち込んで……」
そうするうちに、松原は得意先近くにあったマチコにふらっと入ったが、あまりにも祖父と似ている津田に我を失ったと、声を詰まらせるのだった。
「なるほど……不思議やなあ。よっしゃ、これもご縁や……松原はん、お祖父さんとの約束、わしが成り代わって果たしまひょ」
「えっ?」
松原はポカンと口を開けて、津田を見返した。
「東京には、リバイバル専門の映画館があってな。確かその映画、今やってまっせ。明日の午後、新宿まで来れまっか?」

津田はニコリと笑って、奈良の地酒を松原のグラスに注いだ。
「……それじゃあ、明日の夜も、二人でこのカウンター席ね」
真知子もほほ笑んで、白いメモ紙に何かを書くと松原へ手渡した。
“前売り券”の文字が、落ちてくる涙のしずくに滲んでいた。