Vol.55 純氷

マチコの赤ちょうちん 第五五話

※今回のストーリーは、サイトバックナンバーの第31回「アーケイド」に続いてお読みいただくと、より楽しんでいただけると思います。

チリン、チリリン…と、水色の風鈴がマチコの軒先で揺れている。
夕刻になって少しはしのぎやすくなったが、東京では40℃を超える炎暑が続いていた。
「ほんとに暑いですねぇ。長吉さん、熱中症に気をつけて下さいよ」
まだまだ強い陽射しが、額にかざした真知子の手を白く光らせた。
麦わら帽子をかぶった老人は、シャク、シャク、と氷塊をノコギリで挽きながら、日焼けた笑顔を真知子に向けた。
小柄なその体が、若者のようにキビキビと前後に動く。
軽トラックの荷台の大きな氷が見る間に切り取られ、長吉の「ほい!」と言う掛け声とともに、マチコの冷蔵庫へ運ばれた。
「ふう、一丁上がり」
帽子を取った長吉が汗ばむ首をタオルで拭うと、真知子が「どうぞ」と、冷やしたおしぼりと熱い梅昆布茶をカウンターへ置いた。
「いつも、ありがとうございます。真知子さんの梅昆布茶があるから、今年の夏も乗り切れそうですよ」
長吉は皺立った口元をゆるめて、湯飲み茶碗をすすった。
65歳を過ぎた長吉はもう現役を退いていた。7年前、妻に先立たれてからは、製氷・飲料店を継いだ息子夫婦が忙しくなる夏場にだけ手伝っていた。
真知子は、毎年7月、8月になると冷たい料理やロック酒を欲しがるお客のために、カチ割り氷とクラッシュアイスを使った。
しかし、コンビニで売っている氷や冷蔵庫でこしらえた氷だと、澤井や松村たちが「美味しくないな、この氷」と顔をしかめた。そこで、駅前商店街の駄菓子屋・三井たえ子の紹介で、氷売りの長吉を見つけたのだった。
長吉の氷で作る日本酒ロックは、夏のマチコの人気ドリンクになっていた。
「毎日こんなに暑いと、引っ張りダコでしょう。それに、長吉さんの氷って、美味しいものね。でも、ほんと不思議ね……コンビニの氷とどう違うの?」
真知子が、団扇で衿元をあおぎながら訊いた。
「いやいや、作り方は同じですよ。ただ、できあがった氷をすぐにお客さんへお渡しするのと、ビニール袋に詰めて売り場に並べるのでは、多少時間の差で味が変わるかも知れませんね。真知子さん……私は、お腹だけじゃなく、心にもやさしい氷が売りたいんです」
照れくさそうに答えた長吉は、自分の氷をずっと使い続けている駄菓子屋の三井たえ子のことを話した。
たえ子はこの季節になると、昔懐かしい「氷」の文字看板を店先に吊るして、カキ氷を売り始める。町のおふくろさん的なたえ子の店には、学校帰りの小中学生、買い物帰りの主婦、時には閉店ギリギリに駆け込むサラリーマンの姿も見えた。
たえ子の幼なじみである長吉は、家業を継いだ頃から駄菓子屋に氷を運び、たえ子夫婦とお客の会話をずっと目にしてきた。そして、たえ子が若くして夫に先立たれてからも、変わりなく氷を届けているのだった。
「私の作った氷を食べながら、笑ったり、泣いたり、叱ったり……たえ子さんとお客さんの間で、少しずつ、ほどよく、カキ氷が解ける。解けた氷がお客さんの口に入ると、熱くなった会話が冷まされて、また進む。なにげないことですが、それが分かった日、私は心底うれしかったんです。私の氷が、みなさんの体だけでなく、心も癒してるんだと思いました。この場面を忘れちゃいけないと感じました。だから、私の氷は私の手で届けようと決めたんです。今も……これからもずっと、私はそうするつもりです」
長吉はちょっと興奮している自分を恥じたのか、はっとして口をつぐむと、梅昆布茶を飲み干した。
「やさしい氷か……。ねえ、長吉さん。たえ子さんのことが心配なんでしょ」
真知子の柔らかな視線に、長吉は額を拭きながらはにかんだ。
その時、真知子と長吉の背中に声が伝わった。
「ありがとう……あなたの氷に、どれだけ支えてもらっているか。あなたのノコギリの音を聞くと、懐かしい頃を思い出すの。また、今年も夏が迎えられたな。そう思って、主人が大事にしてたカキ氷の看板を出すの」
二人が振り向くと、たえ子が涼しげなブラウス姿で立っていた。
長吉はポカンと口を空け、次の瞬間、唇を結んでうつむいた。真知子には、彼の頬が一瞬赤くなったように見えた。
そのようすに、たえ子も我に戻ったのか、声を細めて言った。
「真知子さん、勝手にお邪魔して、ごめんなさいね。立ち聞きするつもりじゃなかったの。帰り道で長吉さんの車を見かけて。それに……氷が解けちゃいそうだから」
「あっ! こりゃ、いけねえ」
膝を叩いた長吉は、玄関を飛び出すと荷台の氷に厚いシートをかけ直した。
「ふぃー、これでよし」と胸を撫で下ろし、ふと頭をもたげると、たえ子がシートの四隅に手を添えていた。

「ごくろうさまでした。ところで、長吉さん。次は、たえ子さんのお店を回る予定だったんでしょう?」
真知子が軽トラックの助手席のドアを開きながら、たえ子を手で招いた。
運転席に座る長吉は麦わら帽子のツバを深く下げながら、小さな笑みを真知子へ返した。
発車した車の後から「あんまりお熱いと、氷が解けちゃうよ」と笑いつつ、真知子は足元で輝く氷のかけらを拾った。
澄んだ光の中に、長吉とたえ子を乗せたトラックが揺れていた。