※今回のストーリーは、サイトバックナンバーの第六回「ひたむき」に続いてお読みいただくと、より楽しんでいただけると思います。
関東地方に梅雨明け宣言が出された日、都内では軒並み34度の真夏日となった。
マチコの店内も、6時を回りながら昼間の余熱で冷めにくく、ムッとするほどの暑さだった。クーラーは唸り声を上げている。
澤井や水野たちはもちろんのこと、暖簾をくぐる客たちは異口同音に「生ビール!」と叫び、真知子はビアサーバーの蛇口を捻りっぱなしだった。
「ビールのお替り、ください」
カウンターに座る作業服姿の若い男が、空のジョッキを上げて真知子を見た。連れの男も「俺も!」と、同じ灰色のズボンにグラスの水滴をこぼしながら、ビールを飲み干した。
二人とも新顔だったが、そのユニフォームに縫われた“東都機工”の社名と、汗に混ざる機械油の匂いから、以前、辻野がいたメーカーの社員と真知子には分かった。
「こう暑いと、またストレスが増えちゃうぜ。ところで苅谷よ、今度の新任課長、けっこう面倒なオヤジらしいぞ。根掘り葉掘り、作業経過を問いただしたり、“ホウレンソウ”を徹底するんだってよ。今の女課長に、小うるさく言われ続けて2年。プロ意識だ、人間性だ、気遣いだと、毎日“お小言”づくしに耐えてきて、やっと開放されるかと思ったら。まったく、いいかげんにしてほしいぜ。この欠陥品の調査だって報告書を出したんだから、それを読んで検討、判断するのは、上司の責任じゃないか。何度も俺たちを呼びつけて、質問ばっかり。俺たちには経験が少ないんだ、もっと上がしっかりリードすべきだよ」
銀縁メガネの男の手には、機械部品の写真が握られていた。彼の荒い言葉は、真面目そうな顔つきに似合わなかった。
「まあな、気持ちは分かるけどさ。あんまり、刺々しくならない方がいいよ。ものは考えようじゃないかな、堀井……俺たちが上司を嫌えば、向こうだって嫌うと思う。お前がきちんと報告をしても、そんな気持ちがどこかに出てるのかもしれないよ」
小心そうに語る太めの苅谷は、いかにも機械オタクに見えた。
カウンター席の真ん中で声高にぼやく堀井を、同じ年代の客たちは遠巻きに見つめ、年配の常連客たちは苦々しい顔で睨んでいた。
「あの、もう少し声を小さくしてくれないかしら。あなた方がそれ以上熱くなり過ぎると、他のお客さんはもっと暑くなりそうでしょ」
店内の雰囲気を察した真知子は、お替りのジョッキを置きつつ窘めた。
「すっ、すみません……おい堀井、もう少し静かにやろうよ」
苅谷はポッチャリした頬を痙攣させながら、声を低くした。その言葉を、堀井は鼻で笑った。
「別に、いいじゃん。暑くなりゃ、その方がビールもじゃんじゃん売れて、お店も繁盛! 俺たち、売り上げに貢献してんだぜ」
鼻先の泡を拭ってやに下がる堀井に、真知子がひと言返そうとした時、「東都機工の社員は、いつからそんな大口を、ここで叩けるようになったんだ」と凄むような声がした。
堀井と苅谷が、その声にビクリとして跳び上がった。
真知子が振り返ると、そこには、かつて辻野の部下だった北村の姿があった。髭を剃った北村の顔は、懐かしいサラリーマン時代を思い出させた。
「あら、北村さん!?」と真知子が驚くと、「おうっ、お久しぶり!」と澤井がカウンターの隅から手を振った。しかし、北村はそれに反応せず、若い二人組みに歩み寄った。
「それに、君たちのいる真ん中席は、普通は常連さんたちが座る席だ。カウンターを選んでいながら、そんな配慮もできないのか」
「何だよ、おっさん。あんたこそ失礼だろ! どこの誰かも分からない奴に、何で説教されなきゃなんないの!? 俺たちだって、客なんだよ!」
堀井は、椅子からフラリと立ち上がると、酔った勢いで北村へ掴みかかろうとした。
一瞬、真知子が止めにかかるよりも、苅谷の羽交い絞めの方が速かった。
「よせ、堀井。もういいよ、帰ろう」
「うるせえっ! 離せ、苅谷。お前、こんなオヤジの味方をするのか!? くっそー、離せったら、離しやがれ!」
後ろから諌める苅谷に、堀井は後頭部で頭突きを食らわし「お前とは縁切りだ! これまでだよ。俺の仕事は、自分のスタイルでやるさ。上司も同僚も、もう関係ねえよ」
捨て台詞を吐いた堀井は、握り潰した写真を苅谷に投げつけ、飛び出して行った。
水を打ったように静まり返った店内で、苅谷は鼻っ柱を押さえたまま立ち竦んでいた。
真知子、水野や澤井、他の客が口々に「ふうっ」と溜め息を吐くと、北村は「皆さん、私も大人げないことで、申し訳ありませんでした」と、頭を下げた。
そして、足元に丸まっている堀井の写真を拾い上げ、「R/2310のシリンダーカバーか……」とつぶやいた。
「えっ! どうしてそれを?」
驚き顔の苅谷に、北村はふっと微笑して言った。
「私はこれを売ってたんだよ、2年前まで。そして、初代のR/2310を作ったのが、ここの常連だった辻野さん。元、私の上司だよ。もちろん、君たちの大先輩だ」
北村は、突っ立っている苅谷をカウンター席へ誘うと、「真知子さん、ぬる燗を」と注文した。そして、自分の氏素性、東都機工でのサラリーマン時代、さらには辻野との出逢いや師弟関係をじっくりと語った。
若い苅谷たちは目白に建つ研究所員で、北村や辻野と面識はなかった。
彼は使い慣れない猪口を嘗めながらも、北村の話しを嬉々として聞き入り、また、顔を曇らせながら堀井のことを相談した。
「そうか……実はさっき、堀井君が若い頃の自分のような気がしたんだ。僕も昔は、自己中心的だった。自分の能力は、自分が一番分かっていると自惚れていた。上司との関係作りなんて、煩わしいだけだと思っていたよ。でも、その考えはいつか行き詰まる。一人よがりじゃ、プロフェッショナルにはなれないんだよ。苅谷君、なぜR/2310には、こんなにたくさんのネジ穴があるか、分かるかい?」
「ええ……それは振動による結合部の緩みを最小限に抑えるための補強策です」
うつむき気味の苅谷に、北村は「うむっ」と大きくうなずいた。
「これを開発した時、辻野さんが私に言ったんだ。『このネジ穴は、俺とお前の関係みたいなもんだな。たくさんの箇所でつなぐから、少々ブレても揺れても、ちゃんとくっ付いてんだ。人間も機械も意志疎通、つながる部分の多さが大事なんだよ。それに上司と部下の関係ってのは、このボルトとナットと同じだ。二つがそろってるから、一つの仕事ができる。さしずめ、元気で若いお前さんはボルトだ。俺はそれをしっかり守ってるナットだ。でも、緩みかけた時は、お互いに、いろんな箇所を締め合うんだ。それが、上司と部下の間にある、心遣いだよ』ってね」
北村は声を切ると、猪口をゆっくりと飲み干した。
「そう……今、北村さんとあなたが座ってるこの席だった」
真知子はそう言葉をつなぐと、何かを思いつめている苅谷の猪口に酒を注いだ。
「あの北村さん……俺、この写真持って、今から寮に戻ります。それで、北村さんのお話しを堀井にじっくり聞かせてみます。まずは、僕とあいつの“ボルトとナット”の関係作りからやり直さなきゃ、そう思うんです」
カウンターの上で皺だらけの写真を伸ばすと、苅谷は北村の目をまっすぐ見返した。
「うん、やってみろ。その前に、君の大先輩に挨拶して帰るんだ」
北村の優しげな目が、カウンター前の壁に吊られる銀色の懐中時計を見つめていた。
時計の事情を真知子に聞いた苅谷は、直立して指先まで伸ばすと「先輩っ! お先に失礼します」と、頭を深く下げた。
その時、マチコの店内にいる人生の先輩たちから、拍手喝采が沸き上がった。