Vol.39 忘年会

マチコの赤ちょうちん 第三九話

「あらっ、雪が」
真知子が暖簾を掛けようとした時、白い物がひらりと頬に落ちた。
「早いものね……もう12月なんて」
夕闇に浮かぶ雪雲に、真知子がひとりごちた。ぼたん雪はゆらゆらと舞い始め、赤いちょうちんの肌に染みている。
「本当に……そうですね」
ふいに、肩越しに声がした。
振り返ると、雪駄に和服姿の加瀬俊一が笑っていた。
少し白髪の増えた短い髪が、春先に逢った時よりも職人らしさを感じさせた。彫り深い目も、いっそう輝いて見える。
「ずいぶんと、ご無沙汰してます。皆さん、相変わらず飲んでいますか?」
そう訊ねる加瀬は、手に渋い藍色の風呂敷包みを提げていた。
驚きと懐かしさに包まれる真知子は、声の無いまま、深いおじぎをした。
加瀬も恐縮し、それに応えて、ゆっくりと腰を折った。
真知子は姿勢を直したが、続いている加瀬の挨拶に、また頭を下げた。
そして、加瀬も同じように繰り返した時、「わっははは!お二人さん、そらぁ大阪の新喜劇やがな。いつまでやってまんねん」と、聞きなれた津田の声が響いた。
顔を見合わせて吹き出した真知子と加瀬は、寒がる津田に追い立てられるように店内へ入った。
「師走は、東京の料理屋仲間の忘年会にぎょうさん呼ばれてましてな。そうでっか、あんさんが加瀬さんですか。いつも、真っちゃんから聞いとりました。ええ人生勉強をなさったそうですなあ」
初対面の加瀬と津田は、ぬる燗で盃を交わすと、旧知の間柄のように打ち解けていった。
加瀬はマチコの客たちへの感謝と、今のガラス職人としての暮らしを津田に語った。そして、ようやく妻子と復縁し、長野で“家族いっしょの幸せ”をつかんだことを真知子に報告した。
津田は、加瀬の言葉にウンウンとうなずきながら、目尻をほころばせた。真知子はタバコの煙をくゆらせる津田の顔に、息子となごむ父親を感じるのだった。
「こんばんは。あれ?……わぁーっ、加瀬さんだ。お元気っすかー」
声を上げた松村は、頭の雪を払うのも忘れ、加瀬の背中をパンパンと叩いた。
「おっととと!」
こぼれた酒を、加瀬が手のひらで受けた。とその時、白いハンカチが脇から差し出された。
「ご無沙汰で。ようこそ、いらっしゃい」
水野が雪のついた睫毛をしばたたいて、やさしくほほえんでいた。
「今夜は、大雪だねぇ~」とこぼす客がぞくぞくと現れ、マチコはにわかに賑やかになった。
少し酒が入っているのか、遅れてやって来た澤井は加瀬を見つけるやいなや「おおー!」と抱きつき、勢いあまって、横にならぶ津田の頭をもみくちゃにした。
「こりゃっ!最近わしはここへ来ると、いっつも誰かにいちびられる。おまはんら、もっと年寄りをいたわらんかい」
津田は半分シルバーグレイの髪を撫でつけて、澤井の赤い頬を抓った。
「いちちっ。でも、年寄りって言うわりには、一番元気じゃないの。いつだって、誰かに説教してるしさ。あっ、分かった!自分でいじめ返される種を蒔いてんだ。津田さんって、マゾなの?」
「あほっ!わしは人間が好きなんや。そやからつい言い過ぎてまうねん。けど、わしみたいなええ年寄りは、今どき少ないでぇ。もっと、大事にしてんか」
切り返す津田の鼻も、ほんのりと赤らんでいた。二人のボケとツッコミが、周りの客たちに笑いの輪を広げた。その中には、明日からスキーへ出発するという塚田や、秋月商店の宮部と部下たちの顔もあった。
「これって、まるで忘年会じゃない。よっし!あれは今日使っちゃおう」
真知子はポンと手を打って、冷蔵ケースから一升瓶を2本取り出した。
皆がみな見たことのないラベルらしく、その瓶に視線が集まった。そして誰ともなしに冷酒グラスを配り、瓶を回していた。
「おっ、グラスが1個多いで。真っちゃん」
津田は、加瀬との間に置かれたグラスに手を伸ばそうとしたが、真知子はそのまま酒を注いだ。
「もう一人、ここにいるのよ。ほら!」
真知子の見る壁に、銀色の懐中時計が揺れていた。
「このお酒……津軽の地酒よ。昨日、辻野さんから届いたの。みんなで飲んでほしいって。自分も津軽で飲んでるからって」
店内が静かになった。津田や水野たちも、感慨ありげにグラスを見つめていた。
その時、加瀬がおもむろに風呂敷を開いた。中からは、つややかな瑠璃色の日本酒デキャンターが現れた。
「真知子さん。できればこれにお酒を入れて、皆さんへふるまっていただけませんか。私の感謝と辻野さんの気持ちをいっしょにしたいんです」
真知子はコクリとうなずいて、デキャンターを受け取った。青い光が、加瀬のやさしげな瞳を照らした。
「そうや。そういう気持ちになれるのが、マチコの魅力なんや。加瀬さん、いつまでもそのまま、正直に生きなはれや。ずーっとな」
その津田の言葉が、ようやくマチコの沈黙を解いた。
「ほら出たよ!お得意の講釈の始まり、始まり~。じゃあ津田さん、そろそろ乾杯といきますかー」

澤井の言葉を聞いて「よっしゃ!ほんなら皆さん」と津田がグラスを手に取ろうとした時、玄関から声が飛んだ。
「キャーッ!津田のオジサンじゃないの。逢いたかったわー!」
したたかに酔った、島崎理恵だった。
その途端「こら、あかんっ!」と、津田が頭とヒゲを手で覆った。
かつてないほど大きくて、長い笑い声が、マチコから聞こえていた。