Vol.25 相合傘

マチコの赤ちょうちん 第二五話

春雷が耳をつんざくほどの音を立て、閉店前のマチコの軒を震わせている。
客は、今しがた傘も持たずに飛び込んで来た島崎理恵ひとりだった。
突然の雨にずぶ濡れの理恵は、真知子に渡されたタオルで髪を拭くと、カウンターに腰を下ろした。
ひと月ぶりに現れた彼女だったが、いつになく口数は少なかった。
持ち前の負けん気の強さは鳴りをひそめ、真知子が話しかけても、理恵は「そう」とか「ふーん」などと、気のない声を返すだけだった。
格子窓から洩れ入る赤ちょうちんの灯が、彼女の憂いのようなものを包んでいた。
「ねえ、理恵。何かあったの?」
「別に……。どうして?」
「だって、理恵らしくないもの。いつもの理恵なら、こんなヒマな日こそ私をとっちめてにやろうって、腕まくりでもしそうじゃない」
少し皮肉交じりに、その実、気づかいも含んだ真知子の言葉だったが、理恵は眉をゆがめるでも鼻で笑うでもなく、深いため息をついた。
「この前、一緒だった男の人。あの人のことじゃないの?」
真知子が、しんみりと訊ねた。
4月の初め頃、理恵は突然、中年の男性を連れて来た。
真知子には驚きだったが、どことなく訳ありげな二人の雰囲気も感じ取っていた。
「……私、あの人にプロポーズされたの。でも、彼には9歳になる男の子がいるの」
理恵は、そこで話しを途切らせた。
「へえー、随分来ないと思ったら、そう言うことだったの」と真知子は冷やかしそうになったが、そのくだりに思わず言葉をためらった。
「やっぱり、黙るよね……」
そう言って理恵は銀色のシガレットケースから煙草を取り出し、火を点けた。二人の間で、紫色の煙がゆっくりと立ち昇った。
実は、20代半ばの頃、理恵は離婚を経験している。それゆえの女性課長。失敗の反動から、キャリアを目指したとも言えた。
理恵はようやく腹を決めたのか、盃をくいっと空けて、話しを続けた。
4ヶ月前、理恵は自宅近くに開店したスーパーマーケットで、その男・村田真介と出会った。村田はスーパーの店長だった。
週末の買出しをしていた理恵は、女性客の万引き現場を目撃した。
正義感が許さない理恵は、女性が店外に出た途端、手首をつかんで店先に立つ村田に突き出した。
応接室でバッグを調べられた女性は万引きを認め、淡々として答えた。
本来なら泣き崩れて命乞いするのがお決まりなのだが、妙に落ち着き払っているのが気になると、別室で、村田は発見者である理恵にこぼした。しかし理恵は、そんなことよりも今すぐ警察に突き出すべきだと反論した。
改めて村田が詰問するうち、その女は、暴力と酒に走る夫と離婚したいがため罪を犯したことが判った。息子の面目を守ろうとする親馬鹿な姑を、あきらめさせる手段だったらしいのだ。
結局、村田は女を厳しく戒め、二度とするなと放免した。
理恵は納得がいかなかった。そんな甘いことでは、万引き犯がつけ上がって、ますます盗癖を繰り返す。いくらでも嘘はつけるじゃないかと非難した。
しかし、村田はハッキリと理恵に言った。
「あの女性は、そんなのじゃない。これまで何十人も万引きを扱ってきた僕には、判るんです。あの人、5歳の子どもがいるそうです。……子どもには何の罪もないのに、泥棒の子ってレッテルが貼られるんです。それでも僕は、警察に引き渡してきた。単に万引き目的でやったのなら、今回だってそうしました。でも、彼女の場合は盗癖じゃない。もっと話し合うべきなんです。なぜそうなったのかを、あの人の家族全員で」
村田は、自分自身の離婚原因も同じだったと、理恵に語った。
すれ違い・隙間だらけの毎日、それを埋める会話をお互いが持たなかったことが原因だった。村田の言葉は、そのまま理恵の胸に刺さった。
以来、理恵はスーパーで村田と顔を合わすたび、立ち話をした。
いつしか村田は、理恵を食事に誘っていた。そして、理恵も小学3年生の息子と数回逢うまでになった。
「今まであんなに深く考える人と、知り合ったことなくて。私はディンクス主義だったし、お互いのことをキチンとしてれば、それでいいって思ってたから。やっぱり自信なくてさ。真知子なら、どうするかなって……。今日、返事をする約束だったの。スッポカしちゃった」
灰皿でくすぶる煙草が、理恵の気持ちを語っているかのようだった。
「それで、ここまで来て尻込みしてるわけ。相変わらず仕事には厳しいくせに、自分には甘いのね。言い方がきついようだけど、私は未婚なんだからね。やってみなきゃ、解んないわよ」
腕組む真知子は、真剣なまなざしで理恵に言った。むろん、理恵を思っての諌言だった。
しばしの沈黙の中、玄関の戸がゆっくりと開いた。

がっしりとした体格の村田が、ビニール傘を差して立っていた。
「ほら、お迎えみたいよ。でも、傘は貸さないわよ。ディンクスを止めるなら、一本で濡れながら、かばい合いながら、話してみることじゃない。お互い、人生の雨は知ってるんだから」
厨房を出た真知子は、村田に小さく会釈すると、理恵をせかすように暖簾をはずした。
深夜の通りは、小ぬか雨に変わっていた。
「……ありがとう、真知子」
赤ちょうちんがにじむ路面に、村田と理恵の影が寄り添っていた。