西の空は茜色から夕闇へかがよっているのに、うるさい蝉しぐれは、いっこうに落ちつかなかった。
提灯に明かりを入れた真知子がひと息つくと、そのざわめきが一瞬途切れ、松村の鼻歌が聞こえて来た。
「それ~でも♪待ってる♪夏休み~♪」
右手はいつものクラッチバッグを提げているが、左手には茶色いカゴのような物がぶらぶらしている。
「和也君、やけにご機嫌さんねぇ。それ、何?」
「へっへえ~、うちの元気君の虫籠で~す!」
デレデレとくずれる松村の顔に、真知子は、つい最近見た彼の長男の目元をダブらせた。
「元気君って恐ろしいほど、あんたにソックリよねぇ」
「でえっへへ!そんなに言われちゃうと、俺、親馬鹿になっちゃうよ~」
まんざらでもない松村は、勢い余って、振り回した虫籠をカウンターの角にぶつけた。
「ったく……その、スットコドッコイなとこだけは、お前に似て欲しかねえけどよ」
カウンター席で呆れる澤井の横で、鼻先の眼鏡を押し上げる津田が、虫籠を手に取ってしげしげと見つめた。
「ほう、こりゃ手の込んだ細工をしとる。今どき珍しい、上等の籠やな」
どこで手に入れたと津田が訊ねる前に、満悦したようすの松村は「一軒だけ浅草に竹細工の老舗があって、そこにあったんですよ。この格子の組み方、懐かしいでしょう」と問わず語った。
3歳間近になった元気が虫に興味を示し始め、最近、カブト虫をやたら欲しがるのだが、東京じゃまだまだ高く、カミサンの財布の紐も固い。そこで、この盆休みは家族で彦根へ帰省して、自分が子どもの頃にそうしたように、竹の虫籠でカブト虫を捕ってやるのだと言う。
冷酒で赤くなっている宮部の目尻が、ふっとほころんだ。
「カブト虫かぁ……懐かしいなぁ。セミ、バッタ、カマキリ。夏って、虫捕りの想い出がいっぱいあるね。真知子さんは、どう?女の子だから、あんまり無い?」
「見くびっちゃ、いけないわよ。宮崎の野生児だったんだから!青大将だって、私は手づかみしてたわ」
真知子がさばきかけている穴子を手にかざして言うと、カウンターの男たちはギョッとした表情で、口の中の酒を呑み込んだ。
客たちは、それぞれの虫捕りの思い出話を口にした。
今では聞かなくなった、ナナフシやタガメの名前。それぞれの出身地でちがう虫の名や捕り方。そんな他愛もない話に、今しがたまで昼間のストレスを鬱屈させていたオヤジたちの顔は、ほぐれっ放しだった。
「いっそのこと、みんなで夏休みに、虫捕りしてみればいいかもねぇ」
虫篭の1本外れた竹ひごを直している津田に、真知子がぬる燗のお銚子を嬉しそうに傾けた。
「虫は、正直に生きとるからな。『虫ケラにも、劣るヤツ』っちゅう言葉なんぞ、失礼な話や。今は、人間より虫の方が、自然の法則の中で正しく生きとる気がする……わしら、戦前生まれの世代には、和也君らとまたちがう、虫の思い出があるしなぁ」
津田がつぶやいた後、ふっと、何かの音が聞こえた。ブ~ン、プンという小さな唸りが、松村の肩口あたりで消えた。目を凝らすと、緑色のコガネムシが2、3度小刻みに震えて、羽をたたむところだった。
「……ブンブン、こいつや。いつの時代になっても、わしに少年時代を思い出させてくれる。空襲で焼け野原になった大阪のバラックで、こいつとよう遊んだ。ロウソクの灯に、どこからともなく、こいつは飛んで来よったんや。あれから、もう62年目の夏か……」
津田は真知子にふっとほほ笑むと、太い指先で松村の肩に付いたコガネムシを優しくつまんだ。
すると、真知子が意を得たように、細い糸を持って来た。
糸を結ばれたコガネムシは、ふいに羽ばたいて、カウンターから玄関先を回った。
「おっ……いいねぇ」
ちょっと寂しげで、しかし嬉しげな男たちの瞳に、赤提灯を映す小さな羽根が揺れていた。